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【映画】【本】笑いの向こうに生と死を見つめる、けっこうまじめに。『まほろ駅前狂騒曲』

 我が家はどちらかといえば放任主義であった。私がやりたいと言ったことに、基本的には賛成しそして協力してくれる両親だ。

 唯一反対したのは私が専門学校に行きたいと言ったとき、大学に行った方が将来が安心、という理由から猛反対された。今も昔も目先の楽しさばかりを求める人間である私だが、その時ばかりは立ち止まって考えた。が、考えは変わらず結局反対を押し切り専門学校へ行った。

 今でも両親は「あのときのあんたの選択は間違ってなかった」と言ってくれる。自分では「まあ、そうかな」程度には思うが、一度は反対をした両親からそう言われると、単純に自信が持てる。

 気にしてないようでいてちゃんと見ていてくれて、肝心なところで自分を律してくれる。そんな関係性が身近にあることを幸せと感じるのは、結構むずかしい。

 

「まっとうに愛されて育ったやつは、やっぱり残酷でいけない」(『まほろ駅前狂騒曲』 139頁)

 映画でも原作と同じような台詞が行天の口から語られる。多田が行天に「子供を預かることになった」と告げるシーンでのことだ。何気ない一言のようだが、行天の生い立ちの暗さを見せつける重要な一言だ。

 幸せに気がつけないで育つこと。それが行天の言う「残酷さ」なのかもしれない。見終わってから、まずそんなことを考えた。

 

 

 

 三浦しをん原作の『まほろ駅前』シリーズは、一作目の『―便利軒』が直木賞を受賞、シリーズ外伝として『―番外地』、そして完結編の『―狂騒曲』と三作に亘って続く人気シリーズだ。

 いずれも多田と行天を中心に描かれており、笑いあり涙ありのドタバタ人情ストーリー(とまとめるのはあまりにも下手くそだが)である。

 さらに、原作はすべて実写化されている。―便利軒』は大森立嗣監督で映画に、―番外地』はオリジナルストーリーを加えながら大根仁監督で連続ドラマに、そして―狂騒曲』でまた映画に戻ってくるという、少し変わったシリーズ展開となっている。

 昨今の漫画や小説が原作の実写化の場合、キャスティングがどうのとか原作と違うからどうのとか、そういう文句は腐るほどある。が、『まほろ駅前』シリーズに関してはそういった文句をまず見ない。むしろ、「あれが多田と行天の姿なんだ」と見る側に納得させる力を持っている、数少ない実写化だ。

 

 『まほろ駅前』に関して今さら説明するのはやや面倒なので、とりあえず過去の実写化作品の予告でも張ってお茶を濁そうと思う。


映画『まほろ駅前多田便利軒』予告編 - YouTube

 


まほろ駅前番外地 フラワーカンパニーズ - YouTube

 

 そして、本日公開の最新作が『まほろ駅前狂騒曲』である。


映画『まほろ駅前狂騒曲』最新予告編 - YouTube

 

 瑛太・松田龍平高良健吾大森南朋新井浩文……サブカルクソ喪女が泣いて喜ぶキャスティングであることは間違いない。さらに―狂騒曲』では永瀬正敏まで出てくる。サブカルクソ喪女最強パーティー、ここに極まれり。

  

 2011年に―便利軒』が公開されてから今に至るまで、特に主演の二人の活躍は目を見張るものがあった。

 瑛太は今までも映画にドラマに幅広く活躍していたが、最近では『最高の離婚』の評価が特に高い。私も見ていたが、作品自体の出来も素晴らしく、瑛太演じる光生(みつお)のつかみどころが無く憎めないキャラクターは、彼だからこそ演じられたと思う。舞台でも活躍しており、フィールドを選ばずどこでも活躍できる俳優であることを証明し続けている。

 松田龍平は昨年『舟を編む』が賞レースを総舐めにしたことが記憶に新しい。 真面目で口数が少なく、女性に奥手だが、やるときはやる。つくづく三浦しをん松田龍平の親和性を思い知ったものである。

 映画を中心に活躍しているイメージが強かった龍平だが、そのイメージを簡単に打ち破ったのが『あまちゃん』である。龍平が公共放送の朝ドラに出演し、社会現象(と言っては大袈裟かもしれないが)になるなんて誰が予想できただろうか。私が知る限りでは、ミズタクから龍平に興味を持ち、彼の過去の作品を見始めた人々が結構いる。テレビの力恐るべし。

 

 そんな二人の活躍が世間的に注目されている中での―番外地』のドラマ化は、ファン層を広げるために非常に大きな役割を果たしたと言っていいだろう。

 三つの予告編を見てなんとなく感じるかもしれないが、映画とドラマでは少し毛質が異なってくる。そもそも、原作は多田と行天の過去がしっかりと描かれており、その内容は決して明るく楽しいものではない。ほの暗さや生々しさが背後にある上で物語が進行する。映画はおおむね原作に忠実なので、そういったほの暗さが見え隠れする内容になっている。

 が、ドラマは違う。龍平が「何でもない、ゆるい日常をやりたい」と言ったように、金曜の深夜にぴったりなコミカル寄りの内容となった。深夜枠としては異例の視聴率だったようで、ドラマから『まほろ駅前』の存在を知った人も多いのではないだろうか。もう一回言っちゃうが、テレビの力恐るべし。

 

 原作・映画・ドラマ。良い意味でそれぞれ違う毛質を持った作品になったが、この『まほろ駅前』には一貫しているテーマがある。

 ”幸福の再生”である。

 物語の中では三年間が経っている。その間多田と行天はゆっくりと成長し、幸福の再生とは何か、再生させるにはどうしたらいのかを模索する。

 ―便利軒』―番外地』ではどちらかといえば多田の過去に触れる場面が多い。彼は前妻との間に設けた子供を亡くし、その後離婚。今でもそれを引きずったままだ。新しい恋にも臆病になってしまい、なかなか踏み出せないでいる。

  そして―狂騒曲』では行天の過去が洗い出される。彼は幼いころ親に虐待を受けており、その影響で自分も同じことをしてしまうのではないかという恐怖から、子供と接することを拒んできた。

 しかし、―狂騒曲』で答えが出る。自分たちは「幸せになっていいんだ」

 

 

 

 私が見たスクリーンは満員とまではいかなかったが、午前中の上映だったわりに人が入っていたかな、という印象だった。圧倒的に男性客が多かったのには驚いた。年齢層は多田と行天より少し年上といったところだろうか。

 時折声をそろえて笑えたり、クスッとさせるシーンがあったのは嬉しかった。会話の部分では原作の三浦しをんが携わったおかげもあってか、かなり自然でそれが笑いを誘っていたように感じる。絶妙な間や細かく視線を交わらせながら会話する部分などは、プライベートでも仲の良い瑛太と龍平だからこそできる業であろう。

 

  正直なところ今回の―狂騒曲』は、具だくさんの薄味塩ラーメンを食べたあとのような、「さっぱりしてたしボリュームもあって美味しかったんだけど、なんかものたりないんだよな」という感想を持った。逆に言えば、原作のボリューム感をよく二時間でまとめたな、とも言える。

 辛気臭い団体のこと、バスジャック事件、はるちゃんを預かる依頼、多田の恋模様、行天の過去。様々な出来事が同時進行すれば、そりゃあこうなってしまうわけだが、個人的にはとても物足りなく感じてしまった。

 しかし、それを補うのが瑛太と龍平の演技力の高さである。長くこの役を続けてきたということもあり、安定感は抜群だ。役になりきる、とかそういう話の次元にいない。瑛太と龍平でなければ『まほろ駅前』が成立しない領域まできている。

 特に、事務所でお互い向き合い話をする場面は見応えがある。瞳の動きや語尾の音程、体の揺らし方や指の動きまですべてから感情が読み取れる演技は素晴らしいの一言に尽きる。

 

 さらに、忘れちゃならないのが『曽根田のばあちゃん』の存在である。

 なんとこの曽根田のばあちゃんは―便利軒』の原作で一行目から登場しているというのに、今回やっと登場人物として姿を現した。息子から依頼されて見舞いの代行を行っているのが多田便利軒なのだ。

 終盤、病院の屋上に多田、行天、そして曽根田のばあちゃんが揃うシーンがある。沈んでいく夕日を見つめながら、曽根田のばあちゃんは「死」についての話を始める。次が最後の春になるかもしれない、と。

 まほろの世界には、あらゆるところで生と死のにおいを感じる箇所がある。たとえば、多田の子供は死んでいて、行天の子供は生きている。それなのに自ら自分の子供を避ける行天に怒りをぶつける多田の姿も―便利軒』で描かれている。

 オレンジ色の光を受けながら、行天は言う。

「俺はあんたのこと、なるべく覚えているようにする。あんたが死んじゃっても、俺が死ぬまで。それじゃだめ?」

 曽根田のばあちゃんとの会話の中で出てきた言葉であったが、子供を死なせてしまった過去を背負い続けて前に進めなかった多田の背中を押した、「幸せになっていいんだ」と言う言葉に思えた。

 行天の子供を預かり一緒にいることで、「行天は自分の親とは違う」ということを自覚させ自信を持たせてくれた多田への不器用な感謝だったのだろうか。

 生と死を受け止め、幸福の再生に向けてまた一歩踏み出した多田と行天を見た、そんなシーンだった。

 

 できれば、前の映画とドラマを見てから今回の―狂騒曲』を見に行った方が良いと思う。

「ユラコーが成長してる!」とか「多田の携帯がiPhone5に変わってる!」とか「行天まだ漫画読んでる!」とかそういう継続して見てないとわからないネタが結構あるからだ。

 そして、―狂騒曲』を見たあとは原作をぜひとも読んでいただきたい。このブログを書く上で、パラパラと読み返していたが、結構いい台詞や場面が抜け落ちてしまっている。時間の制約があるからやむを得ないことではあるが、特に―狂騒曲』は映画と原作の併用をオススメする。

 ちなみに、原作と映画では最後が異なる。もちろん、続編を作るためだろう。

 

 

 

 最後に、三作を通して私が一番好きなシーンを書き起こして終わりにする。

 

 

 多田は由良のまえにしゃがんだ。「死んだら全部終わりだからな」

「生きてればやり直せるって言いたいの?」

 由良は馬鹿にしたような笑みを浮かべてみせた。

「いや。やり直せることなんかほとんどない」

 

(中略)

 

 由良はドアを開けて家に入ろうとした。

「聞けよ、由良」

 多田はその手をつかみとめた。「だけど、まだだれかを愛するチャンスはある。与えられなかったものを、今度はちゃんと望んだ形で、おまえは新しくだれかに与えることができるんだ。そのチャンスは残されている」

 由良の手が多田から離れた。閉まりかけたドアに向かって、多田はつづけた。

「生きていれば、いつまでだって。それを忘れないでくれ」

 

(中略)

 

「今度は防弾にしようよ」

「差額を払うんなら、ご勝手に」

 多田は言った。「助手席のドアの塗装代も天引きされるってこと、忘れないでくれ」

「生きていればはらいきれるかな」

 行天は楽しそうに笑った。「いつかは」

 

(『まほろ駅前多田便利軒』 文庫 163-164頁)