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【ひとりごと】現代人よ、(なんとなく)哲学を学べ

 最近不穏な話題があった。ある人が書いたブログを、ある人が「消せ」と文句をつけて、消させてしまったのだ。

 実は私のこのブログも、たまに攻撃を受けることがある。直接的ではなく、たまたまTwitterで見かけちゃったりする。まあだいたい「こいつは私と考えが違う、ふざけんな」って感じの内容。考えが違うからなんだ、同じ方が気持ち悪いだろうが。勝手に言ってろ、私には関係ない。今はそう思えるようになった。

 

 1年ちょっと前、哲学と心理学を無性に学びたい時期があって、本を数冊買って読んだ。そのときは「承認欲求」というものの正体が知りたくて、それに関する本を読んでたんだけど、結局よくわからなかった。単純に私の頭が足りなかった、残念。ただ、哲学には非常に興味がわいて、『<子ども>のための哲学』という本を読んでみた。

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

 

 「子どものための」というだけあって、誰にでもわかりやすい……と思いきや、哲学初心者の私にはちょっと難しかった。だけど、この“ちょっと難しい”に、逆に興味を掻き立てられた。

 

 以下、すべてざっくりした話になるが、許してほしい。なんてたって哲学初心者だから。

 

 哲学というのは、すべての“当たり前”を疑い、自分が納得するまで考えることのようだ。『<子ども>のための哲学』の言葉を借りるなら、

「他の人が上げ底など見ないところにそれを見てしまった者が、自分自身を納得させるためにそれを埋めていこうとする努力なのである」(114頁)

  ということである。ここで言う「上げ底」とは、「なぜ私は存在するのか」とか「なぜ悪いことをしてはいけないのか」とか、そういう“当たり前すぎる”ことについて。そんなこと考えずに生きた方が楽なんだろうが、考えないと気が済まない人もこの世にはいる。そんな人のために与えられた学問が、哲学なのだ(と思う)。

 

 自分は考え事するのは好きな方で、だからこうやって、考えをまとめて文章に残している。なので「なぜ私は存在するのか」という、当たり前すぎてわざわざ考えなくてもいい問題にも興味があった。そもそも哲学は、だいたいこの質問から始まるから、避けては通れない。

 『<子ども>の~』著者の永井先生も、子どものころ友人に「ぼくはなぜ生まれてきたのだろう」と質問し、「両親がセックスしたからだ」という返答に納得できず、自身の哲学が始まったと語っている。この友人の答えは正しいし、普通はそれで解決する話だ。しかし哲学ではそうはいかず、「なぜ“自分”という人間が生まれなければならなかったのか」を考えるのだ。どうだ、ややこしいったらありゃしないだろう。

 

 この問題を説いた思想に“独我論”というものがあり、これは哲学の基本的な問題のひとつとして語られることが多い。ガチめに哲学を学んでる人にとって、この独我論は賛否が大きく分かれるらしいが、私はこの独我論こそ、現代人にとって必要な考えじゃないかと思うのだ。

 

 私が理解した範囲で独我論を説明するならば、「自分にとって存在を確信できるものは自我のみで、それ以外のあらゆるものの存在は信用できない」ということである(多分)。もっと簡単に言うと、「自分以外はすべて作りもの」といった感じか。あとは、自分以外の他人を「ロボット」とか「ゾンビ」とか例えるときもある。

 要するに、「自分以外は本当に存在しているのかどうかわからない」っていうことだ。さらに突き詰めると、「自分」と「他人」を定義する必要があったり、「本当に自分が存在しているのかどうかさえ怪しい」みたいな話も出てきたりするけど、もうこの辺は考え出したら人生終わっちまいそうだから、やめる。

 

 で、なんで私が現代人に独我論を知ることを勧めるかというと、圧倒的に他人への興味がなくなるからだ。だって、自分以外の他人は存在しないし、ロボットかゾンビかもしれないんだよ? 存在しないものに気を揉んでも、意味なくない?

 

 最近常々思うが、人は他人に興味がありすぎる。誰かがちょっと間違ったことを言っただけで大勢の人が上げ足を取るし、他人の人生と自分の人生を切り分けられない人もいる。冒頭のブログの話だって、“他人”が書いた文章がどうしても許せなかったわけでしょ? 独我論を知ってから、存在するかどうかもわからない他人に、なぜそこまで怒ったり悲しんだりできるのか、私はそれが逆にわからなくなってしまったのだ。

 

 そして本当に独我論を知るべきは、「文句を言った側」ではなく、「文句を言われた側」の人だと思う。だって、「文句を言われて記事を消した人」の責任は重いからだ。“前例”を作ってしまうことは実に罪深い。裁判だってそうじゃないか。前例があると、それに従うことになってしまう。私のブログが他人から「消せ」と言われ、私が拒否したとしても「あの人は消した」と言われたら、こちらの立場が弱くなるだろう。いい迷惑だ。

 

 たとえ形を消したとしても、「私がこう思った」ことは事実であり、誰も否定することはできない。ブログを読んだ他人が感じたことよりも、自分が感じたことの方が何百倍も信頼できる。

 消されてしまったブログは私も読んだけど、結構勇気を振り絞って、本心をありのままに書いたんだと思う。だったらなおさら、他人の言葉ごときで消してはならなかったし、消すくらいなら書いちゃダメだ。だから私は、なにかを表現したい人こそ“独我論”を知るべきだと思うのだ。ロボットかゾンビ、あるいは存在しない他人に「気に食わない」と言われたからなんだ。信じられるのは自我だけなのだから、あなたが思ったことを発言すればいい。

 

 それと、独我論の考え方を用いると、他人に「変わってほしい」と思うことがどれだけムダな努力かわかるはずだ。文句を言ってきた人に「そんなことは言わないでください」と頼んだって通じない。当たり前だ。だってその他人は、ロボットかゾンビなのだから。そんなムダな努力をするなら、他人の存在を意識しない考え方を自分が身に着けるべきだと、私は思う。結局は、自分が変わっていくしかないのだ。

 

 ついでにもうひとつ言うと、他人に依存することがどれだけ危ういかがわかるはずだ。西原理恵子がよく言うが、「お寿司も指輪も自分で買おう。その方が絶対楽しいよ」(『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』12頁)である。

女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと

女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと

 

  他人に頼る生活はさぞかし楽だろうが、綱渡りである上に、満足感や達成感を得る機会を自ら逃しているわけだ。他人がそういう生活をしているのを見ると、うらやましい気持ちにもなるだろうが、自分の衣食住を自分で賄っているなら、それ以上信頼できることはない。

 あとは、自分の幸せを他人に依存させるのも、本来あまりよいことではないだろう。これは我々オタクがやりがちだけど、自分の幸せと他人の幸せは切り離して考えた方が、結果的に自分の幸せにつながると思う。

 

 とにかく私は、哲学の入り口に立って独我論を知ったことで、他人に気を揉むことが減り楽になった。来年は、もうちょっと哲学の勉強をしてみたいと思う。