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【俳優】「 #チャイメリカ 」は私にとって「プロフェッショナル 仕事の流儀」だった

 前回「サメと泳ぐ」よりも圧倒的にチケットが取れなくなってたけど、良きご縁もあり(というかほぼ徳の高い他人の力で)遠征含め「チャイメリカ」には4回行けました。次回はもうちょっとチケットが取りやすくなってくれるといいんだけども、その時に備えて徳を積んでいくしかないね。

 「サメ」も相当好きな感じの話だったんだけど、「チャイメ」はそのさらに上をいく舞台でございました。なんなら個人的に、ドラマ・映画含めて今まで見てきた田中さん作品で一番好きまである。こうやってどんどん「新しいものが一番いい」ってなるのはありがたいことですわな~。オタクモチベが上がるってもんよ。

 私は公演始まってから1週間後に自分の初日だったんだけど、それまでチラチラ見てたレポに「ジョーがクズすぎる」みたいなのが結構あって、「けもなれ」の花井が死ぬほど無理だった私は超絶不安だったんですよ。ここで自分的ハズレ連発されるのはかなりキツイぞと。花井なんてまさにそうだったけど、性格が無理すぎると外見補正が効かなくて。「推しだからなんかよく見える」みたいな機能が一切備わってないもんで、舞台でその状態になったらしんどいなと思ってたんだけど、結果的に私はジョーにめちゃくちゃ感情が入ってしまって、別の意味でしんどい思いをしました。

 一幕見終わったあと「これ、原作・池井戸潤じゃん」って思ったんだけど、私にとって「チャイメリカ」は、まごうことなきお仕事ドラマだったんですよね。国の問題だとか「正義とは、真実とはなにか」みたいなクソデカテーマに押しつぶされそうになるけど、私はもっとシンプルに、「ジョーという一人の男が自分の仕事とどう向き合うか」という話に思えた。そういう意味で、これはジョーが出演した「プロフェッショナル 仕事の流儀」だなと。ちょうど公演期間中、まったく別の場所でカメラマンという仕事について考えたりしたので、これからテーマを区切ってまとめていくよ。

 

当事者意識の違い

 ジョーがヂァンリンの電話に出なかったり、ベニーとなかなか会ってくれなかったり、ところどころで軽薄なやつみたいな描かれ方をしていたけど、これはもう、違う国に生きているんだから当たり前の態度だと思う。汚染された空気を毎日吸い、言論の自由もなく、挙げ句の果てに監視カメラで管理されている中国人のヂァンリンと、会社という組織の中で多少のしがらみはあれど、自由に国を行き来できて、自分が知りたいと思ったことを自分の力で調べられて、女と遊ぶ余裕まであるアメリカ人のジョーでは、「中国のヤバさ」の感じ方に大きな差が生まれるのは当たり前だよね、という。

 日本に住んでる我々だって、ジョーと同じ程度しか中国を理解していないし、ということは、ジョーと同じような言動をすることはおおいにありえると思う。いくら友人とはいえ、目の前に好きだった元彼女がいたら、電話よりもそっちを優先するだろうし、自分が追いかけている真実にあと一歩で届きそうだとわかったら、友だちの兄の子どもと食事するよりそっちをとるでしょ、っていう。

 おそらく、ジョーが「クズだ」って言われていたのは、これに加えて「子どもはいらない」とかいいつつ付き合ってた女を妊娠させるとかいう部分も含めてのことだと思うんだけど、私はヂァンリンやヂァンウェイ、ようするに中国人に対するジョーの行いを「クズ」だとはまったく思わないですね。そこまで他人にいろいろしてやらんといけないのか? とさえ思う。ヂァンウェイなんて、「アメリカ人は嫌いだ」とかいってめちゃくちゃジョーを利用しようとしてたし。

 ヂァンリンがジョーに文章を送って「アメリカの新聞だったら掲載してくれるかもしれない」みたいな場面があったけど、あれはまさに当事者意識の違いがあらわれているところで、ヂァンリンにとっては「政府のせいで隣人が殺された事件」だけど、ジョーにとっては「友だちの隣人が病気で死んだよくある話」なんですよね。そんな話、まさか選挙真っ只中にアメリカの新聞に載せられるはずもなく。「結婚しよう」のセリフもまさにこれで、ジョーはヂァンリンにも通じる“ジョーク”のつもりだったけど、ヂァンリンにとっては中国から抜け出せる唯一の手段かもしれなかった。物語の後半でこの流れが来るもんで、見てる側は完全にヂァンリンに同情しているから、そりゃジョーが嫌なやつというか、考えなしに友人の心を弄ぶやつみたいに思えるけど、すべては“当事者意識”の違いであって、ジョーの性格の問題ではないでしょ、という。

 ヂァンリンが抱える苦しみや怒りは、当事者にならない限りどうやったって感じられないわけで、言ってしまえば天安門事件の現場にいたからといってわかるものではないんですよ。その後、何年も中国で暮らしていたヂァンリンと、アメリカで普通に生活していたジョーが同じ意識で天安門事件を考えられるはずもなく。この溝は一生、絶対に埋まらないと思います。というか、埋める手段がない。ヂァンリンがどんなに言葉を尽くしても、ジョーには芯の部分までは伝わらないんですよ。だって、当事者じゃないから。逆にジョーが「ヂァンリンの気持ちはよくわかるよ」なんて言ったら、それこそ酷い嘘つきだったので、私はジョーがそういうやつじゃなくて本当によかったと思ってます。

 

カメラマンという仕事

 公演中、主にゲームの大会で写真を撮ってるカメラマンさんのトークショーに行ったんですよ。ゲストにもゲームの大会に欠かせない、実況解説の人と大会運営なんかをやる人が来てて。選手ではなくスタッフとして大会を支えている人たちのトークは結構貴重で、いろんな話が聞けて面白かったんだけど、その中で「カメラマンの存在意義」みたいな話題があったんすよ。

 去年、あるでっかい大会に、カメラマンさん(Oさんとします)が来なかったんですね。ゲームの大会を撮るカメラマンってのは非常に少なくて、なおかつ選手と交流があるような人はOさんぐらいしかいない。だけど、なぜかその大会にOさんは来なかったんすわ。それを「あの時、選手の表情撮ってほしかった!」「お前がいたらあの熱い試合の様子が残せたのに!」みたいな感じでえんえん2人から責められてて、結局最後には「今年はちゃんと行きます」って話になってたんだけど(笑)。

 2人の記憶には「あの時・あの瞬間」が残ってるんだけど、同じ熱量で記録を残してくれるOさんが来なかったために、その時の興奮を伝える手段が、彼らには“言葉”しかない。だけど、言葉って非常に曖昧で、話す人・聞く人・書く人・読む人にとって自由に形が変わっちゃうものじゃないですか。それに比べて、写真は目の前で起こったことしか写せない。文字は書いた人や話した人の気持ちが乗っかって伝わっていくけど、写真は特別な表現をしようと思わない限り、感情というフィルターがかからないじゃないですか。だからこそ、なにかを“記録”する上で、写真ってこれ以上ないほど優秀で確かなものだなと思ったんですよね、この話を聞いて。現場で起こったありのままを記録して残すことが、カメラマンにとって大きな役目なのだなと。

 「チャイメリカ」がどんな話なのかわかり始めたタイミングで、私はこの話を受け取った人たちが「真実を知ることに意味はあるのか」みたいな議論で盛り上がったら嫌だなと思ったんですよ。確かに、ジョーがあの時写真を撮らなければ、タンクマンの正体を調べるために花屋に行かなければ、女性議員に揺さぶりをかけなければ、何事もなく平穏に日々を送れた人がたくさんいた。じゃあ、ジョーはあの時タンクマンの写真を撮るべきじゃなかったのかといえば絶対にそうじゃない。天安門事件の“記録”を後世に残さなければいけない場面で、シャッターを切らなかったことは責められても、シャッターを切ったことを責められる人はいないはずだと思うのです。だって、それがあの場にいたカメラマン・ジョーの役目だから。

 実際、花屋の夫婦は不法滞在してたし、女性議員だってマリファナをやってた。悪いことをしていたんだから裁かれるのは当然で、結婚して平和に暮らしてたとか、貧しい生い立ちの女性がのし上がって頑張ったとか、そういう話は目の前に「あること」とはまったく別の話ですよね。彼らの罪を白日に晒したのはジョーだけど、それを「酷いこと」とされるのは、全然意味がわからん。はっきり言って、ジョーが秘書に責められてるシーンと、警察から出てきたジョーにいろいろ言うテスのシーンは本当に苦痛でしたね。なんでジョーが悪者みたいな感じになっとんねん、という。感情論でしか語れない人ほど「真実を知ることに意味はあるのか」って疑問を持つんだな、と思った場面でしたわ。

 「知ることの意味」について受け取る側が考えるのはよくても、発信する側がそれを考えたらアカンと思うのですよ。本来ならば、誰かにとって都合の悪いことでも、すべて等しく伝えることがジョーやメルの役割なわけで、それがいわゆる「報道の自由」ではないかと。「真実だからといってなんでもかんでも世に出していいのか?」っていう疑問は非常に危なくて、世に出る情報・出ない情報がわけられた瞬間、「チャイメリカ」で描かれていた中国のような世界が待っているんですよ、極端に言えば。芸能人の熱愛みたいなどうでもいい話から、政治経済に関わる話まで、この世にはいろんな報道があるけど、それを取捨選択するのは発信する側のやることではない。

 ジョーが個展で「ここにある写真のことでは謝りません」と言ったけど、あの言葉に救われた気持ちだったね。写真を撮ったことに、真実を写したことになにも罪はない。それをジョーが胸を張って言ったことが本当にうれしかったし、頭の中でスガシカオが流れた瞬間でした。

 

ペンは剣よりも強し

 観劇1回目は「なんでジョーがクズって言われにゃならんのだ?」とか「ジョーが悪者っぽく見えるような脚本になってない?」とかいろいろモヤモヤしてたんだけど、回を重ねるごとに「ヂァンリンを救えるのはジョーだけだ」と気がついて、同時に“希望の話”に見えてきたんですわ。ジョーは最後、自分が撮った写真の真実を知って打ちのめされるんだけど、私はジョーだったらその真実をまた誰かに伝えようとするんじゃないかと思うんですよね。「ヂァンリンごめんな~俺が悪かったよ~もうこの話はやめような~」とは言わないと思うし、そんなジョーであってほしくないという私個人の気持ちもある。

 公演が始まる前、雑誌のインタビューなんかを読んでると田中さんがよく「ジョーは過去に囚われている男だ」なんて話をしてたんだけど、私はあの舞台を見て、彼がそう見られるのは嫌だなと思ったんですよね。結末を知ると、ジョーはむしろあの写真に執着しないといけない、それが彼の“責任”じゃないかと。

 「ペンは剣よりも強し」というけれど、ジョーはまだ報道の自由が残るアメリカで、自分が撮った写真のこと、そしてその写真に写った友人のことを、誰かに伝えることができる。ヂァンリンが中国で受けた酷い仕打ちを、文字にして誰かに読ませることができる。それは世界に真実を伝えるという意味もあるけど、ヂァンリンという友人を救うことにもつながると思うんですよ。だから上司に阻まれても、ジョーにはなんとかしてペンで戦ってほしい。そしてその先の話は、ジョーが“真のジャーナリズム”と向き合う「チャイメリカ 第2章」にもなり得るなと、私は思うわけです。

 これまでジョーは、天安門事件をある種“エンターテイメント”として、商売のタネとして扱っていて、それは当事者ではないからこそできたことだった。だけど、自分が撮った写真によって友人の人生が狂ったとなれば、その問題の当事者は自分自身になるわけで。誰かの身に起きたことを報じるのではなく、自身の身に起きたことから真実を手繰り寄せる。それはジョーにしかできないことであり、一生かけてやる価値のあることじゃないかと感じるのです。私はそんな「チャイメリカ」の続きが見たい。ジョー自身が“ヒーロー”になるかもしれない未来が見てみたいなと思いました。

 

 本当にいろいろ考えることが多くて、しかも見るたびに感じることが変わる舞台だったので、感想をいい具合にまとめられないんだけど、とにかく自分にとっては、好きな俳優が出ているとか、物語として面白いとか、それ以上の価値を感じる舞台でした。いつか映像として作品が残ることになったら、またゆっくり噛み締めたいです。