冗談は顔だけのつもりだ

そうさ100%現実

【ひとりごと】Twitter、持ち歩きやめました。

 

 去年の聖夜、突然こんなことを思い、iPhoneにインストールされていたTwitterアプリを消した。

 実生活が忙しくなったとかフォロワーさんとうまくいかなくなってとか、そういう現代人っぽい理由では全くなく、ただ突然「めんどくせえ」と思ったのだ。まあ、「めんどくせえ」も十分現代人っぽいけど。

 

 消してみてから、Twitterのなにがめんどくさかったのか振り返ってみる。

①情報の流れが速すぎて、追うことだけで時間が取られる

②数字がすべての世界を見てて疲れる

③情報に温度がない

 思いつく大きな理由はこの3つだ。

 

 

①情報の流れが速すぎて、追うことだけで時間が取られる

 24時間365日稼働し続けるTwitter。自分が書き込みをしなくとも、誰かの発言で時間が埋まっていく、最速のSNSと言っていいだろう。

 以前までの自分はといえば、起きてTwitter、通勤時間もTwitter、休憩時間もTwitter、帰りの電車もTwitter、入浴前もTwitter、寝る前もTwitterTwitterは生活とともにあり、しかしそれがすべて無駄な時間であるとも自覚していた。

 だけど、そうやって常に追っていないと、いつの間にかはるか彼方まで情報が流れて行ってしまうのだ。あとからその情報を取り戻そうとしても、もうさかのぼり切れない場合もある。そして、欲しかった情報を手に入れたころには、また新しい情報が降ってくる。

 突っ立っていても情報を浴びせてくれるTwitter。しかし、浴びるほど情報が必要なことって緊急時でもない限りないんじゃないかと思った。なんでそこまでして欲していたのか、そもそも欲していたのかと考えると、Twitterの流れの中にいたからこそなのであって、一歩外に出れば、知っても知らずともどちらでもいい情報ばかりを浴びていたように思う。

 離れてみてから、時の流れがゆったり感じられ、以前よりゆとりを持って生活できているような気がする。ゆっくり考えごとをしたり、こうやってまとめて文章にしたりする方がよっぽど自分の性に合っていたっつうわけだ。

 

②数字がすべての世界を見てて疲れる

 Twitterの世界では数字がこの世のすべてだ。何人フォロワーがいるか、いくつリツイートされたか、いくつお気に入りされたか。それで人の、物の価値が決まる。そんな単純で幼稚な世界だと思っている。

「これのなにがおもしろいのか……」と思うような内容が何万人にもリツイートされていると、自分の感覚がおかしいと思わざるを得ない状況になる。そんなもん人それぞれなにを感じてもいいはずなのに、まあ自分も気にしすぎなところがあるのかも知れないが、これもまた非常にめんどくさいと思った。

 数字のためなら何でもする人間を見ているのは嫌いではないが、やっぱり数字は人を狂わすとも同時に思う。そしてそういった人々に冷ややかな目線を送っている自分も数字に囚われていて、性格が悪くて、すげえ嫌だなあと自己嫌悪した。

 

③情報に温度がない

 Twitterをやめてから、ますますよくテレビを見るようになった。そうしないと、世間一般の流れからも外れてしまうからだ。

 先日、私が毎週楽しみにしている番組『久保みねヒャダ こじらせナイト 』で、「テレビが上かネットが上か」みたいな内容の話をしていた。情報の速度でいったら、ネットに勝てるものは今のところないだろう。が、情報量でいったらテレビのほうが上である、と3人は言う。

「ネットの情報は繰り返しが多い」と能町さん。「目でも耳でも情報が入ってくるのがテレビ」と久保さん。なるほど、たしかにその通りだなと思った。

 たとえば『ひとり暮らし』で検索するとする。(私の最近の話題と言えばもっぱらこれしかない)そうするとだいたい、お金の話がならぶ。初期費用だったり節約術だったり。たしかに、お金の話は私も一番興味を引かれる。要するにそういうことだ。万人が知りたそうな内容を書けば閲覧数がのびる。その繰り返しがネットなのだ。非常に機械的で、効率性だけを見れば問題ないのだろう。しかしその「これやればいいでしょ」的な情報の冷たさを感じとってしまうと、どうしてもその場から離れたくなってしまう。

 ジャニオタのアカウントでたまに見かける、雑誌の早売りをひたすら載せる個人アカウント、あれもそうだと私は思う。(当たり前だが、早売りの誌面写真をネットに上げるなんぞオタクとして自覚の欠ける、己を恥ずべき最低の行為である)

「これを載せればあんたたちリツイートするでしょ、そんでフォローするでしょ」と言わんばかりだ。オタクとはそんなにクールなもんじゃない。画像を淡々と載せる人よりも、推しの腕の毛がなくなったとかあの雑誌では生えてたとか、生きる上で全く必要のないことを熱く語ってしまうようなそんな人の方が狂ってて面白いのに、と常々思う。ってなんの話だよ。

 もちろん、テレビにだって視聴率がある。万人に受ける内容を流しておけばいいだろうというのはテレビだって同じだ。しかし、ひとつ違うのは、「それをやっているといつか飽きられる」という切迫感があるのを、テレビの中にはなんとなく感じるのだ。

 最初は売れている芸人を出しておけばそれだけで視聴率がとれていたものを、たとえば旅をさせてみたり、ドッキリをしかけてみたりしないと視聴者が飽きて見てくれなくなるのを知っているのだ。だから、毎日さまざまな情報であふれかえっている。

 そこは歴史の深さの勝利なのか。私がテレビっ子だからテレビを贔屓したいのか。でもなんとなく、どうしても、テレビには温度を感じるのだ。それが好きなのだ。

 そして、ネットは文字の羅列を追いかけて情報を得るのが基本であると思う。が、テレビでは目で見て、耳で聞いて、二重三重に情報を得る。たとえばニュースひとつにしても、事件の内容はもちろん、「ニュースを読み上げてるキャスターさんめっちゃいい声」だとか「お天気お姉さんの着てるスカートがかわいい」だとか「エンディングで流れてるこの曲かっこいい」だとか、いくつもの気づきから情報を得ることができる。

  最近私が得た情報といえば、TBSの夕方のニュース『Nスタ のメインキャスターである竹内明氏が、私の好きなカテゴリーである『少年おっさん』だということが判明したことだ。

 まず容姿は文句ない。Nスタの公式プロフィールによれば44歳。年齢も文句ない。そして、「たまに、自分の席でキティちゃんのお弁当箱に入った愛妻弁当を食べている」という記載がある。こちらも見た目の凛々しさからは想像できないギャップがあって非常に良い。さらに先日、宇都宮市のイチゴの話になったとき、同じくキャスターの佐古忠彦氏に「以前スタジオにイチゴを持ってきたときは佐古さんがほとんど食べちゃいましたけど」とシレっとした態度で竹内氏が言うと、「それは竹内さんでしょう!」と佐古氏が嬉々として反論し、竹内氏がうつむいて笑うという、夕方から公共の電波を使って君たちはなにを、して、いるのか、わかって、いる!? といった映像が流れ、読点の多さからもわかるように、非常に興奮したというわけであったってだからなんの話だよ。

 

 

 そういうわけで、面倒なことから逃れた今、生活は少し変化した。

 Twitterがなくなったらやることがなくなってヒマかなあ、と思ったが、液晶画面に向かっていた時間は、すっかり活字を追う時間に変わった。家ではほとんど読まないが、通勤の電車の中と仕事の休憩時間はずっと本だ。私が携帯を手にしなくなったから目につくのかも知れないが、本を読んで時間を過ごしている人は老若男女問わず結構多い。みんなネットに疲れちゃったんだなあ、などと思いながら勝手に仲間意識を芽生えさせている。

 それから、当たり前のことだが携帯の充電が減らない。外出先で画面をつけるときといったら、時間を見るときか路線を調べるときぐらいしかない。少なくても残り80%代で一日を終えて帰宅する。本当に時計としか機能しなかった日なんかは95%で帰宅したが、それでも5%減るのかよ軟弱者! と、必要以上にモバイルに厳しいわたくし。

 逆に、巷の話題についていけなくなったとか(フィギュアスケート町田樹選手が引退したことを最近まで知らず、母に「引退したんだって!」と言ったら「それだいぶ昔の話だよ」と呆れられたり)アイドルの出演番組を逃しそうになったりとか、ドラマは実況しながら見たほうが楽しいなと思ったりとか、「あのフォロワーさんどうしてるかなあ」と顔も知らない人々を想い寂しくなったりもするが、結局、Twitterを持ち歩かなくなって良かったことのほうが多く浮かぶ。

 なにより一番自分にとって良かったと思うのは、余計なことを見なくても済むようになった、ということだ。

 パクツイとかいう理解不能な行動をする小僧のことなんか私の人生において、いや、ほとんどの人たちにとって至極どうでもいいことなのに、それについて考えなければならないような雰囲気が作られることが定期的にある。パクツイのことだけでなく、たとえば「ご冥福をお祈りします」や「黙祷」についてもそうだろう。言わなきゃいけない雰囲気だったり、発言することに対して一考せねばならない雰囲気が作られる。ああめんどくせえ。ああめんどくせえ。これもTwitterにいなければ知らなくてもよかった余計なことだ。なんだその雰囲気。「ご冥福~」とか言ったら言ったで「こういう時ばっかりファン気取りかよw」とかな。圧倒的しらんがな。(集中線)

 それに、Twitterにいるとひとつの事柄に対していくつもの余計な情報がくっついてくる。それが知りたいときもあるが、大概が邪魔な情報である。人に対してもそうだ。私は基本的に、推している俳優や作家やその他もろもろ自分の好きな人々にはTwitterをやってほしくない。非常に勝手なことを言っている自覚はあるが、それは、余計な、知りたくない部分が見えてしまうからだ。

 某俳優が少し前、酔っぱらったのか何なのか、連続してよく意味の分からないツイートをし、そしてその後正気に戻ったのか、その一連をすべて消したことがあった。それを見た私の心は冷え切り、「幻滅」の文字が脳内で点滅した。ママドルとかまあそいうった類の「私生活切り売りタレント」なら話題になっていいんだろうが、その俳優は違う。少なくとも私は違うと思っていたから、その俳優をフォローしてしまったことを非常に悔やんだのだった。好きな人の私生活なんて見なくていい。これは自分が誰かを応援するうえで守っていきたい教訓だ。ってなんど話が脱線しても反省しないこの精神力と雀の涙ほどの文章力に乾杯。

 

『雑学』とかいって、余計なことが役に立つこともたしかに多い。しかし私は、Twitterをやっていて、知らなくてもいいことを知ってしまって後悔や嫌悪することのほうがずっと多かった。もう「みんながやっているから」で自分の進路を決めなくてもいい年齢だと思うと、自然にTwitterから離れることができた。

 Twitterから有名になってそれを仕事にしたり、写真集をだしたり本を作ったりする人もたくさんいるんだろうが、そんな立派な志でつぶやいてる人なんて一握りだろう。だいたいみんななんとなくやってることなのに、それに対して気を揉むことが、急に馬鹿らしくなるときがいつか来るかも知れない。そのときは一度この場から離れて、時間はこんなにもゆっくりと流れているのだと感じてみてほしい。

 

 

 ていうか、SNSひとつやめたぐらいで友達がいなくなるんじゃそれ元々友達じゃないし、めんどくさかったら他人のことなんか気にせずやめちゃえば、Twitter