冗談は顔だけのつもりだ

そうさ100%現実

【映画】2020年アカデミー賞雑感と、邦画について思うこと

ポンちゃんホンマおめでとう!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 「パラサイト」「フォード vs フェラーリ」「ジョジョラビット」「ジョーカー」までは見てて、個人的には「パラサイト」「ジョジョラビット」を推してたんだけど、いや〜まさか作品賞までとっちまうとは思わなかったよ、本当にめでたい。「1917」「スキャンダル」あたりはこれから公開なので、めっちゃ楽しみっすね。

 アカデミー賞にも多様性が求められていて、受賞者からもそんな話がたくさん出てるけど、一つ言っておきたいのは、「パラサイト」は“アジア映画だから”賞とったわけじゃないですよ、見りゃわかるけど。純粋に作品の完成度が高いし、「映画っておもしろい」と素直に感じられる傑作なので、きちんと作品を横に並べた上での結果だと思います。てか、そうじゃないならオスカーに価値なんてないわけだけど。

 個人的には、あんまり多様性を強調し過ぎると、こういうときに「アジア映画だからね〜」とか「女性監督だからね〜」と見られそうなので、かなり慎重にいきたい派。もちろん「お前ら本当に映画見てんのかよ?」と怒ってはいるけど、“多様性お情け受賞”みたいになったら、それこそ腹が立つのでね。そんな情けをかけてもらわずとも、今回は文句なしで「パラサイト」だと思いますよ、ええ。ハリウッドだけが映画じゃないってのは、今年に始まったことじゃねーんだからな!

 ということで、「『パラサイト』はちゃんと作品が素晴らしいから評価されたんじゃボケェ!!!!!」としつこく言っていきますよ。見ようかどうか迷っているなら、絶対に見た方がいいです。紹介します、これが「映画」です。


『パラサイト 半地下の家族』90秒予告

 

 あとは「ジョジョラビット」ね〜! これは個人的に超大好きですねえ〜。


『ジョジョ・ラビット』日本版予告映像

 とにかくヨーキーきゅん(主人公の親友でメガネの男の子)がかわいいし、サムロックウェルが永久に最高なのはもう誰が見てもわかると思うんですけど、「戦争」とか「独裁政治」とか「差別」とか、そういう重〜く暗〜くやろうと思えばどこまでも果てしなくできちゃうテーマを、子どもの目線で捉えることによって、見事なエンタメとして昇華したことがすげえなと思う。これは「貧困」「格差」をエンタメにした「パラサイト」もしかり。

 “社会派”を装った自己満お説教映画って、たまにあるじゃないですか? でも、「何がダメだと思ってんのか」を架空の人物やその生活に落とし込んで、目の前にある世界と地続きに感じさせるって、生身の人間が演じる創作物だからこそできる取り組みだと思うんですよね。お説教するだけなら、言葉でやればいいじゃんって話だし。押し付けにならず余白を残した状態で、見た人にメッセージを託して考えさせるってのも、映画の大事な役割じゃねーかな……とか。この二作について私は、その点がズバ抜けてうまかったという感想を持っています。

 「パラサイト」はオスカー効果でまだ上映続くだろうが、「ジョジョラビット」(と「フォード vs フェラーリ」)はすでに回数減ってるので、まだの方はお急ぎくださいませ〜。

 

 そんでよ、「パラサイト」で韓国映画が注目されたわけだが、勘違いしちゃいけないのは、韓国映画はずっと前から面白かったってことね。つっても、私が見始めたのはここ5〜6年、「新しき世界」のころからなので、そんなに昔から知ってるわけじゃないけど。「パラサイトすげー!」「ポンジュノすげー!」はもちろんだが、本音としては「気づくのおせーんだよ!!!!!」ですよ。もっと前から国際的に評価されるべき映画いっぱいあったでしょ!?!?!?!? というね。

 つーわけで、「パラサイト」から韓国映画に興味を持ったあなたのために、激浅クソミーハーことワタクシが、近年の韓国映画を超絶ざっくりおすすめすっぞ。

 

 ……と思ってしばらく書いてたんだけど、紹介したいの多すぎて全然書き終わらないので、今回のエントリーではやらん。そのうち更新する、多分。

 

 韓国映画がオスカーとったってことで、「邦画はなんでダメなのか」みたいな議論が盛り上がってるみたいだけど、まじで今さらすぎて(笑)って感じよね〜。そもそもの話、映画に「勝ち負け」というものはないので、今回の結果を受けて「邦画が負けてる」と考えるのがまずおかしいっすよね。この状態でも商売成り立ってんだから、別に(どうでも)いいんじゃないですか?

 それに、邦画はクオリティで勝負しようという気がそもそもないと思いますよ。真剣に「オスカーとったるぞ!」って思ってる日本の映画関係者なんて、今どこにもいないでしょ。いたら福田○一みたいな監督がもてはやされるわけないと思いますけど(Twitterでも散々言った)。

 

 私ははっきり言って、シネコンで上映されてるような邦画には、クオリティなど一切求めてません。なぜなら見ないからです。今、日本の映画界がターゲットにしている層にも、「力を入れて取り組むべき」とされる作風にも、1ミリもかすってないので、そりゃ見ないっすよ。こちとら消費者なんで、見ないもんはどうでもいいです。

 ただ、現状の興行収入ランキングでは、私が見ない作品ばっかり上位に上がっているので、そういう映画を見てくれる人にはとても感謝しています。私の代わりに見てくれてありがとう! あなた方のおかげで映画館があり、私が見たい映画を見ることができます! だからこれからもたくさん邦画を見てね!!! ……と、本気で心から思ってる。私の代わりに福○雄一を見てくれて、本当にありがとう。

 何が言いたいかというと、邦画(特にシネコン系)はもう「クオリティを上げて客に見てもらう」というビジネスモデルになってないって話。監督の名前、役者の人気、ドラマの続き、売れた漫画原作、そういう基準で映画をつくってもヒットするんだから、創作に労力をかけるのがバカバカしくなるでしょ。小手先で映画をつくって金を稼ぐ方向性を選び、実際それがある程度成功してるんだから、邦画に韓国映画的クオリティを求める理由がなくないですか?

 

 あと、「邦画は金がないからいいものができない」ってのは半分あってて半分間違ってると思います。たしかに、全体で見れば映画にかける金は非常に少ないんだと思うけど、「金がない」かといったらそうじゃないですよね? だって○田雄一とか、よくわかんねーお涙頂戴映画とか、どれも同じに見える学生胸キュン映画とかつくる金はあるんですよ。だから、「どこに金つかうか」の問題であって、邦画はこういう映画に金つかう選択をしてるってだけの話じゃないですかね。

 今の状況で潤沢な資金を得たところで、福田雄○が愉快な仲間たちを100人集めて、カスみてーなCGを乱用した「ワンピース」の実写映画つくるだけだと思いますけど。しかもそれが大ヒットする世界なんじゃないですかね、今のジャパンは。

 

 もう一度言うけど、私は現状何も困ってないので、邦画がクソ面白くなかろうが、海外の映画賞にガンスルーされようが、まじでどうでもいいです。消費者なので。ただ、こういう状況に憂いてる方がいるなら、クソをクソだと言う以上に、素晴らしい作品を正当に評価する土壌をつくることが大事なんじゃないでしょうか。

 映画って限りなく商業的な芸術なので、どんな傑作でも売れないとダメ。視聴率と同じで、見てる人がどんなに面白いと言っていても、スポンサーで成り立ってる以上、たくさんの人が見てくれないドラマに商業的価値はないんですよ。だから、「売れる映画」をつくるってのは当たり前の話で、アニメ映画や漫画実写化、アイドル映画を否定するのは相当ずれてますね。仕方ないじゃん、それが売れちゃうんだから。

 だったら、良作を売れる映画にすればいいんじゃないですか。「カメラを止めるな!」がまさにその例で、本当に面白くて画期的な映画は、多くの人がきちんと評価して商業的にも成功するわけです。反対に、「ヒメアノ〜ル」や「来る」みたいな激アツ邦画を「アイドル映画」つって避けてるなら、それはもう最悪中の最悪ですね。クソをクソというのは誰でもできるけど、いいものをいいというのは、映画が好きな人だからできることだと思います。

 

 「パラサイト」の受賞スピーチで、プロデューサーが「観客の率直な意見が韓国映画をここまで押し上げた」的なことを言ってましたけど、ほんまコレ。邦画をオワコンにしたのは、金がないからでも、アニメばっかりだからでも、アイドルが出てるからでもなく、「観客がいい映画を求めてないから」に尽きると思います。

 まずは私たち観客が、福田雄一にデカい顔させてる日本映画界をつくったことを反省し、真摯に受け止めて、こいつの息の根を止めることが第一歩なんじゃないですかね。

 

 

【追記】

 私は「邦画が嫌い」なわけじゃなく、「福田雄一にデカい顔させてる日本映画界がクソ」だと思っております。ということで、以下、好きな邦画を羅列します。ご精査ください。

 

・「青い春」


青い春 予告編

※公式の予告がない……ご了承ください。

 人生映画その1。新井浩文に怒りはあっても、青木を演じられるのはあんたしかいないよ。豊田監督なら「ナイン・ソウルズ」も好きです。

 

・「ゆれる」


ゆれる(プレビュー)

 人生映画その2。私はこの映画が大好きなので、真木よう子のことをあまり叩けないでいる。西川監督なら「ディア・ドクター」「永い言い訳」も好き。

 

・「ソナチネ


映画「ソナチネ」劇場予告

※これも公式がない……残しといてくれよ〜!

 人生映画その3。北野武の最高傑作はこれ。異論は認めるかもしれないので、ほかにおすすめあったら教えてください。

 

・「葛城事件」


映画『葛城事件』予告編

 無差別殺人事件を起こした加害者家族の話。もうちょっと頑張れば、クッソ暗い「パラサイト」になれたかもしれない(家族映画的な意味で)。最近の邦画じゃ珍しく、実際の事件を“想起”させるテーマで、リアルな社会問題を映画に落とし込んでるので、その辺もぜひ評価してほしい。赤堀監督なら「その夜の侍」で雨の中「こんばんわ!」ってあいさつするシーンが好き。

 

・「凶悪」


映画『凶悪』予告編

 個人的には「冷たい熱帯魚」より「凶悪」派ですね。並べるもんなのかわからんけど。役者の好演に救われてる部分が多いけど、何よりも池脇千鶴の素晴らしさを見てくれ。

 

・「顔」


Kao (Face) 「顔」 - Trailer 予告編

※これも(以下略)

 女性と社会について真剣に考える今だからこそ、深く考えずに見たい映画。主人公の事情は深刻だが、中年女性の大冒険はなんか笑えるし心が温まる。藤山直美は名女優。

 

・「アイアムアヒーロー


映画「アイアムアヒーロー」DVD&Blu-ray 2016年11月2日発売

 日本にだって最高なゾンビ映画はある!!! ……のだが、ゾンビの特殊メイクは韓国のスタッフと共同制作、ロケ地も日本じゃ撮影不可能だったため、大部分を韓国で行ってるという裏事情。そのおかげで、これまで見たことがないリアルなグロ表現が満ち満ちていて、めっちゃいい映画になってるという切なさよ。この頃にはもうはっきり韓国映画と差がついてたって話でございます。

 

・「ヒメアノ〜ル


ヒメアノ~ル PV

 私は「ジョーカー」より断然「ヒメアノ〜ル」派です。これは並べていいと思う。この映画を「アイドル映画」つって見ない奴とは口を聞きたくありません。

 

 振り返ると、2016年ぐらいまでは邦画を積極的に見てたっぽい。面白かったもんなあ〜。2017年以降、ここに並べたテイストの映画があったら、何かしらの方法で教えてください。

【テレビ】全裸監督の感想「いつまで昭和の話してるんだろう……?」

 知らずに叩く・褒めるというのがインターネットにおいてもっともアカン行為だと思うので、話題沸騰の「全裸監督」を私も見ましたよ。感想はタイトルの通り。いろんな方向から称賛されたり叩かれたりしてますが、私はとにかくこれ。面白いかつまんないかで言ったら、8:2でつまんなかったです。

 

 何がつまんなかったかというと、これもタイトルの通りなんだが、「こいつらいつまで昭和の話でシコってんだろ?」という疑問が、最初から最後まで拭えなかったところですね。な、なんと……実は平成も終わってます!!!!!!!!!!

 シーズン1は昭和から平成初期まで時が流れるわけですが、画面から伝わる「あの頃の俺たちはかっこよかった!」「あの頃の俺たちは自由だった!」「あの頃の俺たちは革命的なことをやっていた!」という、「あの頃の俺たち自慢」。そのかっこよさや自由さは、昭和にももちろん存在していたサイレント・マジョリティのおかげだということを、さっぱりわかっていないんだね……という驚きですよ。

 これだけ愛されてる(らしい)時代なのに、今まで生きてて昭和をうらやましがってる人を一度も見たことがないという謎。むしろ、パワハラ・セクハラを始めとした人権侵害、「がむしゃらに働く」という効率の悪さ、男らしさ・女らしさという無意味な意識など、そういった“昭和的”なものから脱却しようとしてるんだけどね。そんな中で全裸監督くんに昭和自慢されても、「へえ」としか言えなくない? だって全然うらやましくないんだもん。

 

 性的に搾取されていた女性側の視点とか、実在の人物出してるのに許可とってんのかとか、いろいろ「どうなの?」案件もある。「人の性欲を商売にしたい」みたいなことを主人公が言うけど、「男の性欲を商売にしたい」の間違いだし、明らかに“本番強要”と取れるシーンもある(主人公は「自分で決めろ」と言ってたけど、あの状況で断れると思ってんのかって話)。AV出演した女性が「こんなに褒められるなんて」って涙する感動的(?????)な場面もあるけど、もともと自己肯定感の低い人間を捕まえてきてるという姑息さが強調されてるだけだし。

 何よりも腹が立ったのは、主人公がハワイに行った時、海外の女優に「私はあなたを尊敬している。なぜならば、あなたはハリウッド女優よりも男を喜ばせた」みたいなこと言うとこ。「女性を尊敬している」という“ポーズ”を取りつつ、「女は男を喜ばせるもの」だと思っているという、どっから説明してあげたらいいのか2〜3日悩むやつ。こういう人間を「ヒーロー」「風雲児」的に見せ、最大限に美化したのが「全裸監督」というドラマであると私は見ました。

 

 つーかそもそもの話、「エロ」をタブーとして扱ってんのがクソダサいよね。「地上波ではできない!」「挑戦的!」みたいな煽りで出てくるのがAV監督の自慢話って、相当ダサいと思うんだけど。日本にもクソヤバカルト宗教あったし、政治も芸能界もボロボロ真っ黒だし、猟奇殺人だっていっぱいあるじゃん。そういうののドキュメンタリーとかやったほうが、1000000000倍タブー感あると思うんですけど。そこには一歩も踏み込まず、「エロ」をタブーとして祀り上げる浅さよ。まあ、この世に小学生しか存在しないならいいんですけど。

 ネトフリドラマは海外の作品も「とりあえず麻薬」「とりあえずエイリアン」みたいな感じで、マンネリ化してんなと思うけど、過ぎ去った時代を美化し、人間誰しも持っている性欲をタブー化する「全裸監督」がここに並ぶことは、私にとってかなりガッカリな出来事でした。

 

 唯一よかったところを挙げるならば、俳優陣はみなさん素晴らしかったですよ。リリーさんは相変わらずサイコパスってるし、久々の瀧に興奮したし、何よりも國村さんが最高。見ている人にトラウマを植え付ける役をやらせたら、國村さんの右に出る者はいないでしょう。

 そんな國村さんのベストトラウマバウトと言えば、「コクソン」ですよ!!!!! なんと9月2日まで「GYAO!」で無料で見れます!!!!! やったーーーーー!!!!! みんなも“除霊フェス”に参加して、ファン・ジョンミン兄貴の人間を超越した大量のゲロを目撃しよう!!!!!

gyao.yahoo.co.jp

  以上、「コクソン」の宣伝でした。

 

【ゲーム】e-Sports業界に蔓延する「でもブスじゃん」「ハゲのくせに」という呪い

【突然の追記】

 ブコメなどいろいろありがとうございます。議論が起こってなによりです。

e-Sportsに限った話じゃない」

 まったくその通りです。このブログの反応として一番最悪だなと思っていたのは、「え〜e-Sportsって怖いわ〜近寄らんとこ〜」ってなることだと思っていたので、「こんなのどこにでもあるだろ!」というコメントを見て、「みんな、この世は“容姿への不要な言及&評価地獄”ってことを知ってたんだ、よかった〜!」となりました。まず自覚がないことには、何事も改善しませんからね。

 とある作家さんが「ブスなのにこんな題材書くな」と言われてブチ切れたなんて話もあるように、もう“民度”の問題じゃないぐらい、どこにでもある話です。じゃあなんで私が「e-Sports業界」としたのかというと、好きだから、選手を尊敬しているから、この件についていい加減どうにかならんか、と思ったわけです。

 地球の大気汚染は自分1人じゃどうにもできないけど、キッチンの水垢は週末ちゃちゃっと掃除すればキレイになりますよね。まず身近にある汚れをキレイにしたかっただけで、大気汚染はどうにもできないっす、すんません。

 「どこにでもある!」という話がどう続くのかにもよりますが、だったら下に合わせるんじゃなく、上に合わせようとは思わないのでしょうか。「よくある話だから、このままでOK」ってことで、「よくある話だけど、我々はさっさとこんなバカバカしいことやめようぜ!」とはならんのですな。なるほど、なるほど。

 私が思うに、「どこにでもある!」と言ってる人は、大好きなゲームが貶されたように読めたんじゃないでしょうか。それだったら申し訳ないです。私もゲームが好きなので、そうやって傷つけてしまったのなら、己の筆力不足です。先日も、「犯人の自宅にはゲーム機器があり〜」みたいな報道があって、血管が切れそうでした。いつまで私たちの愛するゲームは、そんな見方をされるんだ、と。

 でも多分、「どこにでもある!」って開き直ってる限り、ゲームへの偏見は変わらないですよ。せっかく「e-Sports」っていう高貴なお名前をいただいたんだから、いい加減「舐めんじゃないよ?」ってしたいです、私は。

 

「見た目で判断するのは人間の本能だから仕方ない」

 これはもう、あれです。「思う」ことは本能かもしれませんが、それをコメントに「書く」ことは本能じゃないです。誰もが見る場にそれを「書く」ことは、明らかな悪意があるとしか思えないし、大多数の人はそれをやりません。だから「書く」ことは本能じゃないです。

 どの分野であっても、「かわいい」とか「かっこいい」で足を踏み入れることってあると思いますし、私もそういうことはあります。「世間に注目されるようになったから、見た目を気をつけよう」とは選手自身も言ってますし、それがあのユニフォームにもつながってると思います(ユニについては、スポンサーという金絡みの話もあるので、見た目の話だけじゃないと思いますが)。でも、私が言いたいのは「実力がすべての世界で選手の美醜が評価の基準になってるのはおかしくない?」って話です。

 件の女性は「大会で優勝したのに容姿について誹謗中傷された」わけで、これは明らかに実力が無視されてますよね。どんなに頑張っても、美醜でしか評価しない世間があった結果、貴重な才能が失われたわけです。それについて、「人の本能だからしょうがないよね〜」「そんなのに負けない強い心を持たないとね〜」って、え、マジで言ってるんすか? ビックリしちゃいました。地獄ですね。そしてそんな地獄に自分がいることを、全然わかってないですね。

 

  だいたいこの手のコメントが多かったかなと思ったので、一応追記しました。これ以上は何も言いません。

 

【さらなる追記】

 私が書いた記事についてご意見と、ありがたくも掲載許可をいただいたので、こちらもぜひご一読ください。(こちらの筆者ご本人にもお伝えしてますが、私は「格闘ゲーム」に限った話はしていません)

note.mu

 

 以下、本文どうぞ。

 

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 まず大前提として、この文章を書いているのは女であり、格闘ゲームが好きな動画勢です。今年のPunkもめっちゃつえー。

 あまりに書くことがなさすぎて、自分でも自然消滅するかと思っていたブログが更新されたのは、このエントリーを読んでブチ切れたからです。書いた方にではなく、常々感じていたことが可視化され、ついに我慢できなくなってブチ切れました。

babonyans-akiu.hatenadiary.com

 たくさんの人に拡散され、ゲームに関係ない層にもこの業界の民度の低さが知れ渡って本当によかったと思います。まだまだ動画勢でいたいからこそ、心からそう思います。

 

 多分ここまで読んで「なんだよクソフェミのたわごとじゃねーか!」と私よりもブチ切れてる紳士もいるかと思うんですが、残念ながらこの業界では、あなた方のような紳士も、カメラの前に立てば見ず知らずの人間から「デブ」とか「ハゲ」とか「チビ」とか言われます。女だけの話じゃないっつーわけです。世界大会で優勝しても、「ハゲのくせに」とか「チビすぎるだろ」とか、そういう話で盛り上がっちゃうほどのレベルの低さです。時代は令和。ウソみたいな話ですが、そんな世界がまだこの世にあるんです。

 

 ゲーム配信を見ない方は「一体そんなことどこで言われてんだ?」と疑問でしょうが、大会とかゲームタイトルの“公式配信チャンネル”のコメント欄を見ていれば、すぐに見つけられます。見つけようとしなくても、どんぶらこと流れてきます。

 説明しなくてもわかることをあえて説明すると、勝負の世界、ここで言うe-Sports(別にこの呼び方を認めているわけではなく、楽なのでこう言います)の世界は、「強いやつが勝ち」です。特に大会では、一生懸命努力する姿を見て応援する人はいても、ボロ負けしたのに「強いね!」と褒めてくれる人はいません。“圧倒的実力社会”であることは、きっと理解してくれるはずです。

 そんな環境下にあって、「強いけどブスじゃん?」と言われることが、どれだけの苦痛になるのか想像できない人は、はっきり言って脳みそが溶けてます。じゃあ「ブス」と言わずに「かわいい」って言えばいいのかって、そういう話じゃないです。強さがすべての世界で、「容姿への言及」という勝負にまったく関係のない、それでいて相手の心を確実に折るカードを切る行為が、卑怯極まりないということです。

 

 「ブス」「デブ」「ハゲ」「チビ」という悪口について、「嫉妬」だと解釈している人がいましたが、私はそれが本当の理由だとは思いません。たった2文字発するだけで、なんだかその人よりも優位に立った気分になれるからでしょう。ゲームでは絶対に勝てないけど、汚い言葉を浴びせることで、その人より強くなれた気がしてしまうのです。

 「自分の気持ちよさ」のために他人を侮辱する行為の厄介なところは、侮辱した本人がされた側の傷の深さを理解できないことだと思います。だからこそ、「これくらいで悲しむなんてメンタルが弱い」とか「表舞台に立ってるんだから言われて当然」とか、そういう意味不明なことが言えるんだと思います。好きだから何よりも優先して時間を費やして努力していたことを、一瞬で辞めてしまうほど「ブス」「デブ」には威力があるということを知ってください。

 

 それとこれはマジでしんどい話なんですが、大会に女性が出てカメラに抜かれたとき、「ブス」という悪口よりも、「おっぱいデカイな」とか「太もも見せろ」とか、そういうコメントの方が圧倒的に多いです。令和はセクハラに厳しい時代ではなかったか。いや、ゲーム業界は平成どころか昭和に取り残されていることを認めなければならないのかもしれません。

 「特技は課金、趣味は布教」という模範的なオタクの私でも、動画勢という娯楽を友だちに勧める気にはなりません。こんなクソみたいなコメントを見て不快な思いをしてほしくないし、傷ついてほしくない。汚いものをわざわざ見せる趣味もないですし、そんな下劣なやつだと思われたくありません。

 e-Sportsはなんで日本で流行らないんでしょうかね。一番の原因は単純に「金がねえ」だろうなと思いますが、たとえ金がジャブジャブあって、選手がたくさんメディアに出たとしても、「おっぱいデカイな」のコメントが流れる限り、一般層が楽しめるコンテンツになることは一生ないでしょう。

 

 一方で、「強い」よりも「かわいい」ことを自分の個性にして、業界で名を馳せる女性プロもいます。優勝しなくても、大会に出てSNSを更新してくれればOK。なぜならば、かわいいからです。「かわいいは正義」という言葉があるように、容姿で戦うのは悪いことではないと思います。でも、勝負の世界でそれが正しいとは思いません。

 「かわいすぎる◯◯」みたいな人って定期的に出てきますけど、私はこれ、「でもブスじゃん」と同じくらい女性をバカにした言葉だと思ってます。要するに、どちらもその人の本質をまったく評価していないわけです。本来評価されるべき「◯◯」の部分ではなく、「かわいい」ことが優先されてしまっている。たとえその人が人並み外れた努力をして腕を磨いていたとしても、世間からは「かわいいか否か」でしか評価されなくなってしまうのです。褒め言葉のつもりでしょうが、才能を持って努力してきた人に「かわいすぎる」と言うことは、ひどい侮辱でしかないと私は思います。

 どんなに頑張っても容姿でしか評価されないのなら、強くなったり上手くなったり、賢くなったりする意味なんてありません。バカバカしいし、どう考えても効率が悪いですよね。だったら腕を磨いて技術を伸ばすよりも、メイクをして自撮りをアップして、「かわいい」だけで勝負した方が圧倒的にラクです。本質が評価されていないことからは目を背け、容姿を消費されることに寛容になる。これが正しい立ち回りだなんて、本当に終わってるなと怒りで震えます。

 

  私は、e-Sportsって本当に素晴らしいなと思っています。格闘ゲームのプロ選手がよく言いますが、「ゲームなんてやるとバカになる」と根拠のないことを言われ続けていた時代から、「好き」という気持ちを強く持ってやり続けてきたことが、今や仕事として成り立ち、ゲームが強いと尊敬されるようになったのです。だけど、どうにも時代に追いついていないことが多すぎるように思います。

 お金を出してプロチームを作り、選手をたくさん増やすことも、業界の発展には必要不可欠です。でも、今ここにある幼稚な思考を正さない限り、才能のある選手が消え続け、一般層から人気を得ることもできず、すぐに限界が訪れると思います。私はゲームでご飯を食べてるわけではないので、最悪そうなってしまったとしても、残念ですが仕方がないと諦めます。でも、e-Sportsに食わせてもらっている人は、いい加減に外の世界と内の世界の大きな乖離を認め、真剣に向き合わないといけないんじゃないでしょうか。

 

 

【俳優】「 #チャイメリカ 」は私にとって「プロフェッショナル 仕事の流儀」だった

 前回「サメと泳ぐ」よりも圧倒的にチケットが取れなくなってたけど、良きご縁もあり(というかほぼ徳の高い他人の力で)遠征含め「チャイメリカ」には4回行けました。次回はもうちょっとチケットが取りやすくなってくれるといいんだけども、その時に備えて徳を積んでいくしかないね。

 「サメ」も相当好きな感じの話だったんだけど、「チャイメ」はそのさらに上をいく舞台でございました。なんなら個人的に、ドラマ・映画含めて今まで見てきた田中さん作品で一番好きまである。こうやってどんどん「新しいものが一番いい」ってなるのはありがたいことですわな~。オタクモチベが上がるってもんよ。

 私は公演始まってから1週間後に自分の初日だったんだけど、それまでチラチラ見てたレポに「ジョーがクズすぎる」みたいなのが結構あって、「けもなれ」の花井が死ぬほど無理だった私は超絶不安だったんですよ。ここで自分的ハズレ連発されるのはかなりキツイぞと。花井なんてまさにそうだったけど、性格が無理すぎると外見補正が効かなくて。「推しだからなんかよく見える」みたいな機能が一切備わってないもんで、舞台でその状態になったらしんどいなと思ってたんだけど、結果的に私はジョーにめちゃくちゃ感情が入ってしまって、別の意味でしんどい思いをしました。

 一幕見終わったあと「これ、原作・池井戸潤じゃん」って思ったんだけど、私にとって「チャイメリカ」は、まごうことなきお仕事ドラマだったんですよね。国の問題だとか「正義とは、真実とはなにか」みたいなクソデカテーマに押しつぶされそうになるけど、私はもっとシンプルに、「ジョーという一人の男が自分の仕事とどう向き合うか」という話に思えた。そういう意味で、これはジョーが出演した「プロフェッショナル 仕事の流儀」だなと。ちょうど公演期間中、まったく別の場所でカメラマンという仕事について考えたりしたので、これからテーマを区切ってまとめていくよ。

 

当事者意識の違い

 ジョーがヂァンリンの電話に出なかったり、ベニーとなかなか会ってくれなかったり、ところどころで軽薄なやつみたいな描かれ方をしていたけど、これはもう、違う国に生きているんだから当たり前の態度だと思う。汚染された空気を毎日吸い、言論の自由もなく、挙げ句の果てに監視カメラで管理されている中国人のヂァンリンと、会社という組織の中で多少のしがらみはあれど、自由に国を行き来できて、自分が知りたいと思ったことを自分の力で調べられて、女と遊ぶ余裕まであるアメリカ人のジョーでは、「中国のヤバさ」の感じ方に大きな差が生まれるのは当たり前だよね、という。

 日本に住んでる我々だって、ジョーと同じ程度しか中国を理解していないし、ということは、ジョーと同じような言動をすることはおおいにありえると思う。いくら友人とはいえ、目の前に好きだった元彼女がいたら、電話よりもそっちを優先するだろうし、自分が追いかけている真実にあと一歩で届きそうだとわかったら、友だちの兄の子どもと食事するよりそっちをとるでしょ、っていう。

 おそらく、ジョーが「クズだ」って言われていたのは、これに加えて「子どもはいらない」とかいいつつ付き合ってた女を妊娠させるとかいう部分も含めてのことだと思うんだけど、私はヂァンリンやヂァンウェイ、ようするに中国人に対するジョーの行いを「クズ」だとはまったく思わないですね。そこまで他人にいろいろしてやらんといけないのか? とさえ思う。ヂァンウェイなんて、「アメリカ人は嫌いだ」とかいってめちゃくちゃジョーを利用しようとしてたし。

 ヂァンリンがジョーに文章を送って「アメリカの新聞だったら掲載してくれるかもしれない」みたいな場面があったけど、あれはまさに当事者意識の違いがあらわれているところで、ヂァンリンにとっては「政府のせいで隣人が殺された事件」だけど、ジョーにとっては「友だちの隣人が病気で死んだよくある話」なんですよね。そんな話、まさか選挙真っ只中にアメリカの新聞に載せられるはずもなく。「結婚しよう」のセリフもまさにこれで、ジョーはヂァンリンにも通じる“ジョーク”のつもりだったけど、ヂァンリンにとっては中国から抜け出せる唯一の手段かもしれなかった。物語の後半でこの流れが来るもんで、見てる側は完全にヂァンリンに同情しているから、そりゃジョーが嫌なやつというか、考えなしに友人の心を弄ぶやつみたいに思えるけど、すべては“当事者意識”の違いであって、ジョーの性格の問題ではないでしょ、という。

 ヂァンリンが抱える苦しみや怒りは、当事者にならない限りどうやったって感じられないわけで、言ってしまえば天安門事件の現場にいたからといってわかるものではないんですよ。その後、何年も中国で暮らしていたヂァンリンと、アメリカで普通に生活していたジョーが同じ意識で天安門事件を考えられるはずもなく。この溝は一生、絶対に埋まらないと思います。というか、埋める手段がない。ヂァンリンがどんなに言葉を尽くしても、ジョーには芯の部分までは伝わらないんですよ。だって、当事者じゃないから。逆にジョーが「ヂァンリンの気持ちはよくわかるよ」なんて言ったら、それこそ酷い嘘つきだったので、私はジョーがそういうやつじゃなくて本当によかったと思ってます。

 

カメラマンという仕事

 公演中、主にゲームの大会で写真を撮ってるカメラマンさんのトークショーに行ったんですよ。ゲストにもゲームの大会に欠かせない、実況解説の人と大会運営なんかをやる人が来てて。選手ではなくスタッフとして大会を支えている人たちのトークは結構貴重で、いろんな話が聞けて面白かったんだけど、その中で「カメラマンの存在意義」みたいな話題があったんすよ。

 去年、あるでっかい大会に、カメラマンさん(Oさんとします)が来なかったんですね。ゲームの大会を撮るカメラマンってのは非常に少なくて、なおかつ選手と交流があるような人はOさんぐらいしかいない。だけど、なぜかその大会にOさんは来なかったんすわ。それを「あの時、選手の表情撮ってほしかった!」「お前がいたらあの熱い試合の様子が残せたのに!」みたいな感じでえんえん2人から責められてて、結局最後には「今年はちゃんと行きます」って話になってたんだけど(笑)。

 2人の記憶には「あの時・あの瞬間」が残ってるんだけど、同じ熱量で記録を残してくれるOさんが来なかったために、その時の興奮を伝える手段が、彼らには“言葉”しかない。だけど、言葉って非常に曖昧で、話す人・聞く人・書く人・読む人にとって自由に形が変わっちゃうものじゃないですか。それに比べて、写真は目の前で起こったことしか写せない。文字は書いた人や話した人の気持ちが乗っかって伝わっていくけど、写真は特別な表現をしようと思わない限り、感情というフィルターがかからないじゃないですか。だからこそ、なにかを“記録”する上で、写真ってこれ以上ないほど優秀で確かなものだなと思ったんですよね、この話を聞いて。現場で起こったありのままを記録して残すことが、カメラマンにとって大きな役目なのだなと。

 「チャイメリカ」がどんな話なのかわかり始めたタイミングで、私はこの話を受け取った人たちが「真実を知ることに意味はあるのか」みたいな議論で盛り上がったら嫌だなと思ったんですよ。確かに、ジョーがあの時写真を撮らなければ、タンクマンの正体を調べるために花屋に行かなければ、女性議員に揺さぶりをかけなければ、何事もなく平穏に日々を送れた人がたくさんいた。じゃあ、ジョーはあの時タンクマンの写真を撮るべきじゃなかったのかといえば絶対にそうじゃない。天安門事件の“記録”を後世に残さなければいけない場面で、シャッターを切らなかったことは責められても、シャッターを切ったことを責められる人はいないはずだと思うのです。だって、それがあの場にいたカメラマン・ジョーの役目だから。

 実際、花屋の夫婦は不法滞在してたし、女性議員だってマリファナをやってた。悪いことをしていたんだから裁かれるのは当然で、結婚して平和に暮らしてたとか、貧しい生い立ちの女性がのし上がって頑張ったとか、そういう話は目の前に「あること」とはまったく別の話ですよね。彼らの罪を白日に晒したのはジョーだけど、それを「酷いこと」とされるのは、全然意味がわからん。はっきり言って、ジョーが秘書に責められてるシーンと、警察から出てきたジョーにいろいろ言うテスのシーンは本当に苦痛でしたね。なんでジョーが悪者みたいな感じになっとんねん、という。感情論でしか語れない人ほど「真実を知ることに意味はあるのか」って疑問を持つんだな、と思った場面でしたわ。

 「知ることの意味」について受け取る側が考えるのはよくても、発信する側がそれを考えたらアカンと思うのですよ。本来ならば、誰かにとって都合の悪いことでも、すべて等しく伝えることがジョーやメルの役割なわけで、それがいわゆる「報道の自由」ではないかと。「真実だからといってなんでもかんでも世に出していいのか?」っていう疑問は非常に危なくて、世に出る情報・出ない情報がわけられた瞬間、「チャイメリカ」で描かれていた中国のような世界が待っているんですよ、極端に言えば。芸能人の熱愛みたいなどうでもいい話から、政治経済に関わる話まで、この世にはいろんな報道があるけど、それを取捨選択するのは発信する側のやることではない。

 ジョーが個展で「ここにある写真のことでは謝りません」と言ったけど、あの言葉に救われた気持ちだったね。写真を撮ったことに、真実を写したことになにも罪はない。それをジョーが胸を張って言ったことが本当にうれしかったし、頭の中でスガシカオが流れた瞬間でした。

 

ペンは剣よりも強し

 観劇1回目は「なんでジョーがクズって言われにゃならんのだ?」とか「ジョーが悪者っぽく見えるような脚本になってない?」とかいろいろモヤモヤしてたんだけど、回を重ねるごとに「ヂァンリンを救えるのはジョーだけだ」と気がついて、同時に“希望の話”に見えてきたんですわ。ジョーは最後、自分が撮った写真の真実を知って打ちのめされるんだけど、私はジョーだったらその真実をまた誰かに伝えようとするんじゃないかと思うんですよね。「ヂァンリンごめんな~俺が悪かったよ~もうこの話はやめような~」とは言わないと思うし、そんなジョーであってほしくないという私個人の気持ちもある。

 公演が始まる前、雑誌のインタビューなんかを読んでると田中さんがよく「ジョーは過去に囚われている男だ」なんて話をしてたんだけど、私はあの舞台を見て、彼がそう見られるのは嫌だなと思ったんですよね。結末を知ると、ジョーはむしろあの写真に執着しないといけない、それが彼の“責任”じゃないかと。

 「ペンは剣よりも強し」というけれど、ジョーはまだ報道の自由が残るアメリカで、自分が撮った写真のこと、そしてその写真に写った友人のことを、誰かに伝えることができる。ヂァンリンが中国で受けた酷い仕打ちを、文字にして誰かに読ませることができる。それは世界に真実を伝えるという意味もあるけど、ヂァンリンという友人を救うことにもつながると思うんですよ。だから上司に阻まれても、ジョーにはなんとかしてペンで戦ってほしい。そしてその先の話は、ジョーが“真のジャーナリズム”と向き合う「チャイメリカ 第2章」にもなり得るなと、私は思うわけです。

 これまでジョーは、天安門事件をある種“エンターテイメント”として、商売のタネとして扱っていて、それは当事者ではないからこそできたことだった。だけど、自分が撮った写真によって友人の人生が狂ったとなれば、その問題の当事者は自分自身になるわけで。誰かの身に起きたことを報じるのではなく、自身の身に起きたことから真実を手繰り寄せる。それはジョーにしかできないことであり、一生かけてやる価値のあることじゃないかと感じるのです。私はそんな「チャイメリカ」の続きが見たい。ジョー自身が“ヒーロー”になるかもしれない未来が見てみたいなと思いました。

 

 本当にいろいろ考えることが多くて、しかも見るたびに感じることが変わる舞台だったので、感想をいい具合にまとめられないんだけど、とにかく自分にとっては、好きな俳優が出ているとか、物語として面白いとか、それ以上の価値を感じる舞台でした。いつか映像として作品が残ることになったら、またゆっくり噛み締めたいです。

【テレビ】ちょっとみんな、今期No.1ドラマ「 #スキャンダル専門弁護士QUEEN 」のこと誤解してない?

 毎クール能動的にドラマを見ている視聴者の方々は、「視聴率=おもしろさ」でないことなんてすでに常識だと思うのだが、私が今のところ今クールNo.1だと思っている「スキャンダル専門弁護士QUEEN」の視聴率が2話でガクッと下がったのをきっかけに、「このドラマはなぜおもしろくないのか?」という趣旨のネットニュースなんかが嬉々として出始めた。そもそも「おもしろい」という限りなく個人的な感想を、不特定多数が決めるよくわからん指数に委ねられることがすごい。なにその数字への信頼度は。

 まあそれはいいとして、そういったネットニュースをちらりと読んで、みんなこのドラマを“誤解”しているんじゃないかと感じた。なにが言いたいかというと、このドラマは「かっこいい女主人公が世の中の悪を成敗して視聴者をスカッとさせる」って話じゃないっつうことだ。とある記事で、某失敗しない女医やら、クラスを支配する某女教師やらの名前が挙げられていたけど、この人たちを思い描いて「QUEEN」を見たら、そりゃ「これじゃない」と思うよな、という。

 アイドルのスキャンダルを取り上げた第1話はおおむね好評だったように思うんだけど、セクハラ・パワハラを扱った第2話は、視聴率だけじゃなくネットの評判もイマイチだった。私が熱心にドラマタグを漁ったところ、主な不満は「セクハラ・パワハラを軽く扱いすぎ」といった内容だった。確かにそれは私も思う。「QUEEN」は基本的に、“弁護士ドラマ”としては悲しいほど浅くペラッペラだ。竹内結子さん演じる主人公の氷見江は、依頼者の苦悩に寄り添い、問題解決に汗水垂らして奔走する人間ではない。見終わったあとにスカッとするようなドラマの主人公は、きっと氷見のような人物像にはならないだろう。要するに、多くの人がこのドラマに期待していただろう“問題解決後のスカッと感”は、氷見という人物が主人公になっている時点で、制作者の本当の狙いではない気がするのだ。

 

 第2話について話したいので、まだ見ていない人はこちらからあらすじの確認をどうぞ。

www.fujitv.co.jp

 「セクハラ・パワハラを軽く扱いすぎ」という不満が多かったといったが、私個人としてもこの意見に賛同した上で、「第2話の本筋はこそじゃないので、ドラマとして軽く扱ったことは間違いではない」と言い切りたい。セクハラを受けたとする女性へのセカンドレイプを登場人物がなんとも思ってなかったり、実際に起こった盗作疑惑を題材にしていることは明白なのに決着のつけ方がご都合主義だったり、残念と言わざるを得ない部分もあった。だけど、第2話は「セクハラ・パワハラを受けた女性 VS 訴えられた男性と、それを解決する氷見」が軸ではなく、最初から「マスコミ VS 氷見」の構図が軸であったと、私は感じた。なので、依頼者が持ってきた問題をどう解決するかよりも、氷見はどうやってマスコミに不利益を与え、いかにして“エスニック系イケメン”と接触するかが、第2話の本筋だったと思う。そして氷見がマスコミに弱みを握られている以上(それが原因で氷見がマスコミを恨んでいる以上)、おそらく第3話以降も「マスコミ VS 氷見」の構図は崩れないだろう。そう考えれば、セクハラ・パワハラや盗作疑惑について掘り下げていく必要性が、“ドラマとしては”なかったということになる。

 

 氷見は依頼者と最初に面会したとき、まず譲歩を勧め、そして「ひとつ美味しいエサが見つかれば、人はそこに集まって貪り尽くすんです。本来意図していたところ以外のことを否定されて、あとは崩落への道を辿るだけ。残念ですが、それが今の時代です」と言っている。これは物語の終盤で、氷見がセクハラ・パワハラを訴えた女性と、訴えられた男性を対峙させたとき、「あなた方は利用されてるんです。セクハラ問題の影でなにかを隠したり、それに乗じて儲けようとしたりするヤツらがいるんです。あなた方がいがみ合うのは彼らの思うツボです」といって2人に和解を求めた場面につながる。

 この女性と男性はもともと交際していたため、氷見が「和解せよ」と言ったことはセクハラ・パワハラの解決策として非常にお粗末で、視聴者の怒りを買うのも当然に思える。しかし、氷見の相手はあくまで“マスコミ”だ。「ひとつ美味しいエサが見つかれば、人はそこに集まって貪り尽くす」というのは、まさに2人の個人的な問題に介入し、週刊誌やワイドショーでセンセーショナルに報道して騒動を煽り、挙げ句の果てに暴露本を出版しようとしたマスコミのことにほかならない。氷見はなによりもそれが許せなかったはずで、だからこれ以上騒動を大きくしないために、2人に和解を迫った。結果、暴露本の出版は中止になり、氷見はその延長線上で“エスニック系イケメン”との接触も果たすことができた……ということじゃなかろうか?(今めちゃくちゃ“同意してほしい顔”をしております)

 

 第1話から氷見の情報が小出しにされているけど、おそらく「QUEEN」の本筋は、弁護士としての彼女の活躍ではなく、氷見江という女の謎を解き明かしていくところにあるのだろうなと、第2話を見て感じた。このドラマは“弁護士もの”の王道を楽しむわかりやすい作品ではないけれど、ドラマ好きには確実にハマる作品だと思う。要するに、最初から万人がおもしろいと思う作品ではなかったのだ。そこを誤解されて「視聴率下落!」とか言われても、ねえ……という気持ちである。

 

 と、まあいろいろ言ったけど、最終的には「賢い女たちのイチャイチャがたまらないから全人類見ろ」につきる。第1話で氷見さんが「本当の与田ちゃんは、優しくてかわいくて賢くて、最高にいい女だよ?」 って言った屋上のシーンは悶絶しながら萌え転がったし、第2話で与田ちゃんが電話越しに氷見さんに向けて「……好き」って言ったシーンはテレビの前で「ッカーーーーーーーーーー!!!!!!!!!! 最高の演出ーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!」って叫んだ。

  水川あさみさん演じる与田ちゃんの“賢くて強いカラッとした女”像がめちゃくちゃ気持ちいいし、斉藤由貴さん演じる真野さんのセリフはすべてがパワーワードだし(斉藤さんの振り切れっぷりも最高)、auのCMで片鱗を見せていた中川大志さんの“コメディ俳優”としての才能が完全に開花してるし、バカリズムさんのキャラクター監修は天才的だし、衣装含め映像全体がおしゃれで洗練されてて映画的だし、演出とテンポも申し分ない。「視聴率が悪いからおもしろくないんだろう」って理由で見ないのは、あまりにももったいないぞ、ということは大声で言っておきます。

 とにもかくにも、以下の写真を見てピンときた人間は全員、木曜22時フジテレビにチャンネル合わせてテレビ前で待機すること!!!!! 損はさせないから!!!!! 見て!!!!!

 

 
 
 
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このあと21時からは『キスマイ超BUSAIKU!?新春2時間半SP』に竹内結子さん、水川あさみさんが出演! VTRで泉里香さんも出てますよ〜😍 そして続いて23:30からは水川さん、バカリズムさん出演の『初対面トークショー!!内村カレンの相席どうですか』がスタート! 今宵は一足先にQUEEN祭りじゃい! #キスマイBUSAIKUでは竹内さんの採点に大注目 #さすがわれらがQUEEN #内村カレンでは乙女な水川あさみが見られる?! #イケメンHさんって誰 #スタッフ一同もメロメロでした #ドラマQUEEN

【公式】スキャンダル専門弁護士 QUEENさん(@queen_scandal08)がシェアした投稿 -

 
 
 
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今日もおつかれさまでした✌️

水川あさみさん(@mizukawa_asami)がシェアした投稿 -

 

  ……なんやねんこれひたすらかわいいかよ。はあ、毎週木曜日が楽しみすぎる人生、最高!!!!!!!!!!

【アイドル】1年半ぶりに見た私のアイドルについて〜「A.B.C-Z 2018 Love Battle Tour」横浜アリーナ公演にいってきました〜

 

  気がついたら2018年は一度もA.B.C-Zの現場に行っていなかった。(行ったのは「コインロッカー・ベイビーズ」1公演だけだった)

 5周年のお祭りを駆け抜けた達成感が大きかったのと、「ABC座」がジャニーズ伝説だったことが決定打となり、去年はA.B.C-Zからだいぶ気持ちが離れていた。そもそもジャニーズ事務所という組織やジャニーさんの演出に魅力を感じたことがない私は、ジャニーズの歴史を紐解いていく物語に興味がなく、A.B.C-Zが出ているとはいえ、すでに2回見ているものを3回見る気にはなれなかった。コンサートに行かなくても平気になってしまった時にこれだったので、えび座は申し込みすらしなかった。でも彼らを嫌いになりたくはなかったので、距離を置いて茶の間で5人を見ることにした。だけど、いつの間にかCDを買わなくなり、音楽番組や「少クラ」「ABChanZOO」すら見なくなってしまった。

 そんな状態と並行して、他に好きなことが見つかって夢中になり、Twitterのアカウントも引っ越し、心機一転超楽しい毎日を送っているので、特にA.B.C-Zが必要ない状態まできてしまった。そこでちょうどよく「LBT」の追加公演が決まり、会場が5周年のコンサートでも行った横浜アリーナだと聞いて、ひさしぶりにA.B.C-Zが見たくなった。去年のコンサートに行かなかったのは、私がずっと「A.B.C-Zには大きなステージに立ってほしい」と思っていることもあって、ホールコンサートをしている姿を見たくなかったんだと、密かな抵抗をしていたのだと、その時気がついた。私はアイドルに距離的な“親近感”など求めていないので、メンバーが豆粒になってもいいから大きな会場で踊り狂ってほしいし、ド派手な特攻で客席のオタクをビビらせてほしいのだ。A.B.C-Zにもずっとそれを願っている。

 

 A.B.C-Zに対して鬱屈した気持ちを抱えながら1年を過ごし、2019年一発目の現場として横浜アリーナに行った私は、結果としてめちゃくちゃ楽しかったし、またA.B.C-Zのコンサートに行きたいと思った。思えてよかった、とホッとした気持ちにもなった。私はまだ5人のことが大好きだし、五関さんのダンスにやられっぱなしだった。(うちわが売り切れて買えなかったことが本当に心残りだ)

 でも、なんとなくモヤモヤを感じる“粗”が見えてしまったことも確かだった。A.B.C-Zに心酔していたころは、なにか思うところがあっても「好き」の気持ちが上書きしてくれたけど、今回はそれがなかなかできなかった。「生歌にするならちゃんとボイトレしてほしいな」とか「もっと踊ってほしかったな」とか「でっかい装置を使ってるところが見たかったな」とか、彼らに対する“要求”のようなものがいくつか残ってしまって、そんな自分がすごく嫌だった。でももっと嫌だったのは、コンサートが終わって家に帰り、寝る前に携帯のデータフォルダを埋め尽くしている今の推しの写真を見て気持ちを落ち着かせていた自分。なんかもう悲しかった。「五関さんごめんなさい」と思いながらも、大好きな顔が無数に並んでいる画面を見て安心している自分に引いた。だけどそれが今の自分の正直な気持ちだということを、痛いほど理解した瞬間だった。

 

 もう一度言うが、A.B.C-Zのコンサートは本当に楽しかった。はしちゃんのかわいさに骨抜きにされたし、戸塚さんはやっぱり顔がいいし、河合ちゃんのおしゃべりはいつだっておもしろいし、五関さんは色気で人を殺せるんじゃないかと思ったし、塚ちゃんのキラキラオーラに魅了された。今年もコンサートツアーがあるなら行きたいな、と今は思っている。新曲もかっこよかったから、次は多分CDを買うと思う。濱口さんがプロデュースしてくれるドラマも気になる。だけどもう、彼らに熱中していた時の自分は戻ってこないかもしれないな、ということを薄っすらと感じてもいる。

 多分私は、今の推しとA.B.C-Zの現場が被ったら推しを優先してしまうし、CDリリースのタイミングで推しに関する出費があったらA.B.C-Zにお金を出すことを渋ってしまうし、同じ時間にドラマが放送されたら推しのドラマをリアルタイムで見てしまう。これはもう、「絶対」と言ってもいいかもしれない。A.B.C-Zの優先順位が完全に入れ替わってしまったことは認めざるを得ない。

 

 なにか結論が出た、もしくは出したくてこの文章を書いているわけではないので、1年半ぶりにA.B.C-Zを見たことで、自分の気持ちがどうなったかはわからない。だけど絶対に「文句を言うオタク」にはなりたくないので、それだけは自分と約束した。そんなクソダサイことをするならオタクとして死んだ方がマシ。もし万が一、A.B.C-Zへの気持ちが完全に途切れる時が来るのなら、私はなにも言わずに消える。

  ……と言いつつ、「現場」といえば「舞台」な今の推しだけでは「キャーーーーー!!!!!」とか「フゥーーーーー!!!!!」とか叫ぶ機会がまっっっっったくないので、コンサートには行かないと死ぬなと思った。だから私はまたA.B.C-Zのコンサートに行くと思う。暗いことばっか書いたけど、彼らが歌い踊る空間に行くと、無条件に元気になるのは間違いない。(舞台ばっかりだと、物語の解釈やらで煮詰まってしまうことがよくわかったので、頭を空っぽにして楽しめる時間は今の私にとってすごく貴重だ)

 なんというか、アイドルと自分の関係として、もしかしたら今が1番いい距離感かもしれないとも思っている。他に熱中することがあっても、見ているだけで気持ちを高めてくれるアイドルは、自分にとって不可欠な存在だと気がついた。それに気がつかせてくれたA.B.C-Zのことを好きでよかったと思った横浜アリーナだった。

 

【テレビ】春田創一は「あっち側」に行ったのか

※この記事はわたくしが過去に「note」へ投稿した記事ざんす。「note」のアカウント消しちゃうにあたり、もったいないのでこっちに移動させたっていうことなんでよろしくお願いします。

 

 

>2018/06/03 15:26投稿

 

 「おっさんずラブ」最終回の前、私が愛してやまない作家・三浦しをん先生の新刊が出たんですよ。いきなりですけど宣伝いいですか。

www.kadokawa.co.jp

横浜で、ミッション系のお嬢様学校に通う、野々原茜(のの)と牧田はな。
庶民的な家庭で育ち、頭脳明晰、クールで毒舌なののと、
外交官の家に生まれ、天真爛漫で甘え上手のはな。
二人はなぜか気が合い、かけがえのない親友同士となる。
しかし、ののには秘密があった。いつしかはなに抱いた、友情以上の気持ち。
それを強烈に自覚し、ののは玉砕覚悟ではなに告白する。
不器用にはじまった、密やかな恋。
けれどある裏切りによって、少女たちの楽園は、音を立てて崩れはじめ……。

 

 察しのいい人ならわかると思うんですけど、女性同士の恋愛の話です。いや、恋愛という言葉には当てはまらない、もっと深くて曖昧で強固な関係性で結ばれた、「人と人の人生を描いた物語」と言った方がいいかもしれない。

 こっから本のネタバレ入るんで気をつけてちょうだいな。

 「のの」と「はな」は学生時代に大恋愛をして心身ともに結ばれ、そしてある事情で別れます。ここまですべて10代の話なんだけど、それからこの物語は約30年間続きます。30年の間、2人は手紙・メールのやりとりで関係をつないでいくんだけど(なんとこの小説、全部2人の手紙・メールの文章だけで構成されてます。スゴい)、その間に「のの」は別の女性と付き合い、「はな」は男性と結婚します。

 要するに、「のの」は女性を愛する女性で、「はな」はそうではない。だけど、確かに2人は愛し合っていて、別れてからの30年も、ずっとお互いの心の中には「のの」「はな」がいる。新しいパートナーができても、理想の旦那と生活を送っていても、1番心が躍り、そしてかき乱されるのは、「のの」「はな」から手紙・メールが来た時。たいしたことない(たいしたことある時もあるけど)近況を知ったり、相手が今も自分のことを思っていると確認できた時だけなんですよね。

 恋人になった時におそろいで買った指輪を、30年経ってもずっと身につけてるし。これってなに? 一体どんな関係なの? と考えて、2人の関係を言葉で定義することのバカバカしさに気がついたんですよね。「恋人」「友達」「親友」「家族」とか、一体誰がどうやって決めるんだろう?

 

 牧凌太は「ゲイ」で男性が好きな男性。そんで、春田創一はそうではない。でも、春田は牧という“人間”を知って彼に恋をし、そして結ばれたいと願った。じゃあ春田が「あっち側」の人間になったのかというと、絶対にそうじゃないと思うんですよね。ていうか、「あっち側」ってなに? あっち・そっちなんて、本当にあるの?

 私がこのドラマで1番よかったな、ってか、好きだなって思ったのは、春田がずっとまっすぐに“人と人”の付き合いをしてたことなんですよね。部長に告白された時も、「上司として尊敬しているけど、それは恋愛感情じゃない」から断っていて、決して「男だから」部長を受け入れなかったわけではない。でも、だからこそ部長は自分にも可能性があると感じて、なかなか諦められなかったんだけど。これもまた、人と人との付き合いだからこそ生まれるもどかしさ・不安定さで、これが作中でものすごくうまく作用していたんですよね。毎週「一体この先どうなってしまうんだ……」と唸り続けていた日々が、今となっては懐かしい。

 春田のそういう“なんでも受け入れてしまう”危なっかしさに、何度も「コノヤローーーーー!!!!!!!!!!」と叫んだけど、それは彼が相手を性別や年齢、さらには付き合いの長さですらふるいにかけることなく、「今、自分はこの人をどう思っているのか」と必死で向き合っていたからで。そんな中で、あんなに何人にも告白されたら、そりゃあ困っちゃうよ。だってみんなのことが好きなんだもん、人として。その中で、「牧とずっと一緒にいたい」気持ちが恋愛感情だと気づいた。ここまでに7話分(てか、最後15分になるまで)かかった春田さん、本当にウソがないまっすぐな人だよねえ。

 

 牧と春田は、ののとはなと違って「結婚」という形を得たから、関係性を定義することはできる。でも、春田の性的指向を定義するのは、なんか違うなと。いや、そんな必要あんのか? って。

 だって、春田は「男だから」牧を選んだわけじゃなくて、「牧だから」牧を選んだんだもん。道路の向こうにいる牧のもとに駆け寄ったのも、牧がそこにいたからで、春田は牧のところに行っただけ。牧にとってはあの道路が海よりも深い大きな大きな溝に見えていたかもしれないけど、春田には横断歩道さえあれば簡単に渡れるただの道だった。春田にとっては“性別”なんて、その程度のちっぽけなものだったんだと、私はそう思いたいのです。

 どこまでもフラットに、まっすぐに相手を見つめ、誰かが決めた定義に縛られることなく、自分に正直に生きていいんだということを、私はののとはな、そして牧と春田から、奇しくも同時期に教えてもらったのでした。

 

 あ、もしこれから、牧と春田がケンカすることでもあったら、春田には「もういい、ロリ巨乳がいる合コン行ってくる」って言ってほしいし、牧には“必殺”「……武川さんのところに行こうと思って」を繰り出してほしい。それでも必ず、2人があの家に帰ってくると信じているから。