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冗談は顔だけのつもりだ

そうさ100%現実

【アイドル】友人の担降り

 先日、友人がKAT-TUN上田担を降りた。

 
 このaskの回答にグッときてしまって、友人に許可を得て、今ブログを書いている。
(界隈では語り尽くされた題材だということは承知の上である)
 友人とは小学生からの付き合いなのだが、こんなに誠実に、理路整然とものごとを語る人だとは、今回の件で初めて知ることになった。常に無気力無関心無頓着で生き、偶像崇拝にのみ力を注ぐ人だと思ってたのに。まあ実際そうなんだけど。
 

というかそもそも担当ってなに?好きなら担当なの?だったらわたし担当めっちゃいるんだけど?という気持ちでいる人間でした。

 この部分には私もうなずいた。一体担当とはなんなのだろうか。

 友人も私も、クソがつくほどミーハーなので、複数のものを同時に愛でるということはなんの苦でもないし、罪悪感もない。言ってしまえばジャニーズの中でもジャニーズ以外の分野でもそれぞれ“1番好き”がいる。例えば「その人たちの中で誰が1番好きか」と問われても、そんなものは「石原さとみと子猫どちらが可愛いか」と問われているようなもので、そもそも比べる物差しが全く違う。「人間というジャンルの中では石原さとみが1番可愛いし、動物というジャンルの中では子猫が1番可愛い」と答えることと、「それぞれのジャンルで1番好きな人がいる」と答えることは同じだ。
 担当制度とは、“◯◯担”という枠の中にはめられ、その中で行動するように、枠の内外から緩やかな監視を受けているように思える。その監視が『仲間意識』や『一体感』と感じられるうちはいいのだが、友人はおそらくそれを『窮屈』だと感じたのだろう。
 担当と名乗ったことで、「〇〇担であるならばこうせねばならない」「〇〇担なのに▲▲を応援している」という行き過ぎた監視がはじまるのは、確実にファンを減らす、まったくいい方法である。
 
 
 そして友人は、KAT-TUNという対象が変化していくこと以上に、KAT-TUN担の変化に敏感であった。
今のKAT-TUNがかっこいいかどうか、ですが、今のKAT-TUNがどうこうというより、私は時々見受けられるKAT-TUN担の雰囲気に憤りを感じることがありました。
それはKAT-TUNをまるで腫れ物のように扱い、擁護しているようでKAT-TUNというグループを傷付けているようにも思いました。
「色々あったグループなのに、こうやってテレビに出してもらえるだけ感謝しないと」「衣装の文句言うより新曲出せることに感謝しないと」「冠持たせてもらえるだけ感謝しないと」みたいな雰囲気が無理でした。
世界で一番かっこいいと思っているKAT-TUNをどうしてそんな風に言えるのか理解ができませんでした。
KAT-TUNなんだから曲出せて当たり前だろ」「かっこいいKAT-TUNにダサい衣装着せてんなよ」「つまらない冠ならいらない」とこれは極端すぎますがそんな気持ちでいたかったので、私は常にKAT-TUNはかっこいいんだと強くて美しくて手の届かないアイドルだと言い続けてきました。
それは今も変わりません。
 例えばジャニーズJr.の話をしているならば、「テレビに出られるだけでもありがたい」という言葉が出てもおかしくはないだろう。しかし、相手はあのKAT-TUNだ。テレビに出ない方が、新曲を出さない方がどうかしている。
 アイドルとは、ファンの理想を現実にしてくれる生き物である。(であってほしい)ゆえに、私たちファンが「これで十分」と思った時点で、アイドルの成長や進化は止まる。そんなことになったら、現状を保ち続けるだけで新しいファンは増えず、古いファンが飽き、結果グループは衰退していくことになるだろう。それでもいいならば、「新曲出せることに感謝しないと」とかふざけたこと言ってもいい。
 
 
 書き連ねてみると、友人はKAT-TUNに魅力を感じなくなったわけではなく、環境や習わしに面倒さを感じていたのだということに気がつく。それがどんなに勿体ないことか。
 向かい風ではなく、微力であっても追い風となり、背中を押していけるようなファンでありたいと、今回の件で改めて考えさせられた。
 
 
KAT-TUNが好きだからこそ私の私利私欲で文句付けたくないですし、楽しい気持ちになってるカツン担のみなさんに水を掛けたくないです。私は自分が欲するものを観たい、お金を落としたいと思ったのです。
歌が聞きたい、踊りがみたい。
素直な気持ちです。
 
なので、上田担を降りました。
中途半端な気持ちで担当を名乗りたくないので。
  そして、担当を降りた人の傍らには、まだ担当を続けていく人がいる。
 なぜジャニオタが『担降りブログ』を書きたくなるのか、なんとなくわかった気がする。