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冗談は顔だけのつもりだ

そうさ100%現実

【ひとりごと】小さな画面に狭い宇宙が広がっている

 学生の頃のSNSといえばmixiだ。
 今、私のアカウントはネットの海をさまよっていることだろう。お気の毒に。
 mixiにはコミュニティーというものがある。同じ趣味嗜好を持ったものが集い、ネット上で交流することが目的だ。コミュニティーを通じて出会い、実際会って友達になった人もいる。しかし、mixiをやめてから連絡を取らなくなった人たちもいる。要するに、その程度の友達しかできなかったわけだ、私の場合は。
 それから、SNSだけでのつながりを大切にするということ自体が自分には合わないと思いはじめて、mixiを放置した。上手く使いこなす人も中にはたくさんいるだろう。社交的とは才能だ。

 

 だいぶ前に、テレビでSNSに依存する若者の特集を見た。
 自分の生き様を自慢したい女性、自分と思考が合う者だけを集めたコミュニティーを作る場だと考える男性、ただ今の気持ちを吐き出すだけの男性。そんな20代の若者が特集されていた。
 私はこういうのを見るのが大好きだ。見ず知らずの他人が考えることを聞くのが好き。趣味は人間観察です。

 自分の生き様を自慢したい女性は、自分が書いたことに対して反応が返ってくるのが楽しいのだと言う。人とのつながりをコメントという形で実感し、自分が人から注目されているという感覚を得るわけだ。
 はっきり言ってこういう女とは絶対に友達になりたくない。きっと向こうも私のような根暗とは友達になりたくないと思っているだろうから、ちょうどいいお互い様だ。
 結局、こういう人ってのは『プチアイドル』みたいなものになりたいんじゃないかな、と私は思う。
「○○ちゃんっていつもおしゃれなお店でランチしてるよね~うらやまし~!」とか言われて、自分は人とは違う、すなわち普通の人間より上に立っているという優越感に浸りたいという気持ちなんだろう。
 しかし、所詮は小さなコミュニティーの中での話。一歩でも外に出れば、彼女のように毎週金曜日におしゃれなバーに行って地元の友人とカクテルを飲む女なんて腐るほどいるのだ。何も特別なことじゃない。
 誰だって人に羨まれるような人生を歩みたい。わからなくもない。しかし、小さなことを大きくしているように見えて、その必死さになんとなく虚しさを覚える。

 自分と思考が合う者だけを集めたコミュニティーを作る場だと考える男性は、役者を目指しているんだそうだ。
 彼は500人ほどフォロワーがいてアカウントをいくつか使い分けている。現代っ子とはこういう人のことをいうのだろう。夢が役者というあたりも現代っ子風を吹かせまくっていてとても良い。
 いわゆる裏アカというものを持っていて、そこに書かれる愚痴はひどいものだった。「俺がんばってるんだからもっと褒めてwww」とか書いてあってちょっと笑った。で、すぐ真顔に戻った。
 とにかく彼は人からの評価を気にしまくっている。フォロワーと意見が合わなくなるとフォローを外す。簡単に友達を外せることがツイッターのいいところだと語っていて、ゾッとした。
 それは人に見られることを商売にしたいと思う故なのかも知れないが、彼はきっと2年後には実家に帰ってこいと言われるんじゃないかと勝手に想像し、他人のことながら気が重い。
 人の評価を気にする気持ちはよくわかる。いい評価をもらえれば単純に嬉しいし、自分のやったことが間違いじゃないという自信にもなる。それが悪いことだとは言わないが、気に食わないことを削除してしまうのはいかがなもんか。
 怒られているうちが華だ、なんて言われて育った学生時代を思い出す。怒られなくなることや厳しい意見を言われなくなること、すなわちそれは興味を持たれなくなっているということと同じなのだ。
 批判する人ってのは、好きでもないくせにその人のことを調べあげ言動行動に常に目を光らせている。これほど熱狂的なファンはいないだろう。そう思えるようになる人間、もしくは他人の評価を気にせず自分のやりたいことを貫き通すことができる人間に、人は魅力を感じ憧れる。ような気がするのだが。

 ただ今の気持ちを吐き出すだけの男性は、何の気なしに「死にたい」とつぶやく。いわゆる鬱イートってやつだ。はっきり言ってこういうつぶやきはどうでもいい。勝手にしてくれと思う。
 メンヘラかまってちゃんっていうのは、一種の露出狂じゃないかと思う。死や傷という極限状態をネット上で人に晒すという行為は、局部を晒すことで社会に存在を示す孤独さとどこか似ている。もうかまってもらう手段がこれ以外に無いのだ。かまってちゃんは背水の陣の時、こうなるのだろう。
 しかし、こういうやつに構うやつも構うやつだ。単純にいい人すぎるか優しい自分を演じる策士か、同類のどれかだ。かまってちゃんという人格を育てるのは明らかにこういう人たちだと思う。
 気持ちを吐き出すだけと言っても、どこかで誰かの反応を待っている。人とのつながりを少しでも感じたい、そんな心情がうかがえる。
 顔も見たことがないような軽薄な人間関係に心の拠り所を求めることは、一人でいることよりも孤独だ。そう思ってしまう。

 

 たくさんの友人に囲まれ、恋人を持ち、良いものを食べ、充実した仕事をすること。SNSを見ているとそれが人間の幸せであると決めつけられ、強要されている気分になる。
 それはきっと私がほどほどな人数の気の合う友達と密接なつながりがあればいいと思っていて、恋がめんどくさいと思っていて、食べ物に興味が無くて、ありふれた仕事に就いているからだろう。羨んでいないと言ったら嘘になる。しかし、今が充実していないかと訊かれれば、そうでもない。
 一言一句に反応してくれるような友人がいなくとも一言連絡すれば会える気の合う友人がいて、本や映画を見て良い作品に出合った時は恋をするときめきに似た感情を持つし、煙草を吸ってるだけで満足するし、職場のまったりとした空気はとても心地よい。これはこれで幸せな状態なのだ、私の中では。
 しかし、SNSはそれを許してくれない。人とのつながりが軽薄だからこそ、わかりやすい事柄の中でしか幸せの尺度を測れないのだ。
 これは結果として、無個性な人間を生み出すことにならないかと危惧する。
 これをすれば幸せ、これをすれば人気者、これをすれば慰められる。もうすでにそんな世の中になり始めている気がする。


 書いてて思うけど、やっぱり私はこの手のコミュニケーションが苦手だ。
 ツイッターも、コミュニケーションツールだと思ってない。独り言を口に出すのは恥ずかしいので、画面に向かって叫んでるという感覚。それでなんか反応してもらえたら嬉しい、その程度だ。
 きっとこれからもFacebookは放置するし、ラインもスカイプも使い方がいまいちわからないまま過ごすんだろう。
 でもまあそれはそれで、それが自分なので、しょうがないね。